「アルビレオの観測所って」
成幸くんの問いかけ声で、わたしは我に返った。
いつの間にか列車は走りだし、星の河に沿って進んでいる。
「ここだよ」
手紙に抱いた疑問をいったん脇に置き、わたしは銀河鉄道の路線図の真ん中あたりを指差す。
「アルビレオはね、はくちょう座のくちばしにあたる部分の星だよ。オレンジの主星と青い伴星からなる美しい二重星で、だから『銀河鉄道の夜』の中でも、サファイアとトパースの球が出てくるんだ!」
「へぇ……」
わたしの指の先にも、黄色と青が混ざった、エメラルドグリーンの光が輝いている。
「ただ、白鳥区の最後だって言われる場所だけど、お話の中では降りてない」
「ってことは情報なしか……何があるんだっけ? きょうの舞台で言ってた?」
「天の川の水流を測る機械があるんだった……かな。そもそも停まってくれるといいんだけど」
胃を押さえてわたしは頷く。ここまで童話と一緒の世界だから、先が読めない展開になると余計に不安だ。
その、押さえた辺りから、
ぐー、ぎゅうううぅるるるるるるるるる……
「……オナカ、スイタネ」
「お、おぅ」
盛大に……空腹の音がした。
成幸くんの顔が見られず、わたしは半べその顔で反対を向く。
夢の世界まで鳴り響くほどお腹が減るなんて随分と小粋なジョークだよね、理不尽すぎるおい責任者出てきやがれ、だよ!
「ん~、こりゃまた大きな腹の虫の音。なら、ちょっとおあがんなせぇよ」
そこに、背後から、がさがさした、けれども親切そうな声が聞こえた。
振り向くと、声の主は、茶いろの少しぼろぼろの外套を着て、白い巨大な包みをふたつ肩に掛かけた、赤ひげの男性だった。断りもせず、向かい側の席に陣取ると、包みをほどき始める。
「おふたりぐらいだと、鷺よりも雁の方が喜ばれるでしょうかね」
開かれた包みの中からは、くちばしを揃えて、リアルに黄と青のまだら模様の鳥が現れていた。
「(鳥捕り……!)」
この辺りで出てくるお話の登場人物を思い出したわたしの前で、そんな事は露も知らないだろう赤ひげのおじさんは、雁の足を、軽くひっぱった。
「どうです、少しおあがりなさい」
童話の中と同じように、チョコレートででもできているようにすっと離れた鳥の足はつやつや黄色く光って、わたしの食欲を容赦なく刺激する。
「う、売り物ですよね? 俺たちまったく持ち合わせが」
「あ、お代は結構ですよ。毎日注文が入りますからね。気に入ったら次の機会の土産にしてもらえればいいんです。こっちはすぐ喰べられます」
「成幸くん、じゃあせっかくだし食べてみようよ!」
ためらう成幸くんを押し退けて、わたしは差し出されたそれを掴むと、かりっ、口いっぱいに頬張った。とたん、なんとも言えない甘さが頭の中まで広がる。
「んー! 美味しいっ! 成幸くんも食べようよ!」
「あ、あの、文乃さん……」
「ん?」
「黄泉の国の食べ物って、気軽に食べちゃダメだったんじゃないっけ。戻れなくなっちゃう、とかで」
「うぺえっ!?」
曇り加減の成幸くんの表情に、わたしも一気に正気に戻る。確かに古今東西、あの世で出されたもの食べちゃって戻れなくなる昔話、たくさんあったような……。
うぅ、この食い意地のせいで現世に還れなくなったらどうしよう……。
と思っていたら、成幸くんがわたしの食べかけた黄色の何かを奪って、丸ごと口にいれていた。
「ちょっ、ちょっと言った傍から何やってるんだよ成幸くん!?」
返事の代わりに、ぼりぼりぼりぼり音がする。
そして、ごくっと大きく喉を鳴らすと、成幸くんはひときわ眼を輝かせた。
「確かに旨いなこれ! チョコレートよりもうまいって書いてあったから、子どもの時からどんな味か気になってたんだよ俺も」
「そうじゃなくて!」
「ジョバンニは戻ってこれてたし、どっちにしろ、これで文乃と一緒だろ」
「あ……」
「成幸、そうですかあんたが唯我成幸さん! よかったよかった、こいつを渡すためにここまであがったんで」
「つ、ツル!?」
「そうです、鷺でも雁でもない、中でもこいつはとびきり上等の鶴でさぁ。だいぶ奮発しましたね。いや、召し上がれる人がうらやましくてしょうがない」
わたしたちの会話をまるで無視したように、鳥捕りのおじさんはどこからともなく大きな鶴を一羽取り出して満足そうに笑うと、袋を包みなおし、ふっとその場から消えた。
追いかけるようにわたしは、窓にへばりつく。
「わ……すごい……」
今日この言葉を、何度繰り返しただろう。
けれど窓の向こうでは、そうとしか言えない光景、本で見た通り、手を広げた鳥捕りを覆い隠すようほど大量に舞い降りてきた白い鳥が、足が砂へつくや否や、雪のように川底の砂へ溶けていく様子が繰り広げられていた。
「――ごめんな文乃、巻き込んじゃって。エゴイストだよな、うちの親父」
「え?」
驚きと感動を共有しようとしたわたしは、思いもよらぬ成幸くんの言葉に、ただ混乱した。
「戻れるか分からないし、不安だよな」
「えっと」
出し抜けな話にまったくついていけず、わたしは成幸くんを怪訝な顔で見返す。
成幸くんが、申し訳なさそうな顔で口を開いた。
「……きょうの舞台について予習しようと思った時、黒山なんとかって映画監督の人の、追悼コメントがあってさ。そこにあったんだ。『カムパネルラも演出家の巌もよく似たエゴイストだ。ほんとうにいいことをすれば、なにをしても許してもらえると思っている。残された両親やジョバンニ、劇団員やファンの気持ちはお構い無し』って」
「……」
「親父もさ、良かれと思ってやったのかもしれないけど、俺たちの意思はお構いなし。お使いならさ、なにも今日でなくても、しかも文乃まで巻き込むことないのに」
「わたしも読んだよそれ。『それでも、我がまま放題生きたとしても、たとえ最後は見届けられなかったとしても、作品を後世に残せさえすれば、演出家の生は無念じゃないと信じたい』って。成幸くんのお父さんとはぜんぜん違う話だよ。それに……」
「それに?」
わたしは言いかけた台詞をひっこめる。
――それに。
いまのわたしは、確信に近い予感がしていた。
成幸くんのお父さんが、こうしてわたしたちを見てくれているなら。
成幸くんだけでなく、わたしたちふたりを指名して、届け物を頼むということは。
もしかして、わたしに繋がるあのひと……と思ってしまったのだ。
けど、口に出してしまったら消えてしまいそうで、怖くて。成幸くんにさえ言えなくて。
代わりにわたしは、もう一つの理由を口にする。
「わたしは、エゴイストも好きだよ」
「はい?」
「この世に残される人より、あの世でもわたしと一緒にいたいって気持ちを優先してくれる、エゴイストさんが。さっきはすぐ、一緒のもの食べてくれてありがとうだよ、成幸くん」
「あ……」
「嬉しかったよ、とっても」
遠くから、次はアルビレオ、とアナウンスする声が聞こえてきた。
わたしは先に座席から立ち上がり、大好きな成幸くんに手を伸ばす。
「ここから先は、答えがない旅だね、成幸くん」
天の川の真ん中に建つ、黒い大きな建物。平屋根の上で、サファイアとトパースの球が、輪になって静かにくるくると回っている。
そんな場所を、自分の足で訪れることになるとは思わなかった。
「場所がわかるの、文乃?」
「ううん。でも幻想空間なんだから当たって砕けろ、だよ!」
予感を信じて、わたしは成幸くんの前に立ってずんずん進む。
お迎えもいなかったし、黒い建物は物語にある通り四棟あって、受付もわからない。だから、いちばん駅に近い一棟へ近づいていく。
「なので、もうすぐ大事なお客さんが来るので、中抜けして迎えに行ってきまーす!」
そこに、すみません、を掛けるより早く、白衣を着た若い女性がビスケット扉を跳ね飛ばす勢いで飛んできた。
そう、若い女性。
でもわたしは、即座に叫んでいた。
「お母さんっ!!」
「……へ?」
女性が、手にした時刻表らしき紙と、わたしの顔とを見比べる。
「文、乃? えっ、えっ、まだ到着まで時間はあるはずだよね、って休日ダイヤだったこれーっ!?」
*「あははーっ、ゴメンゴメン、心配だろうから駅まで迎えに行こうと思ってたんだけどさ。どうもはじめまして、文乃の母の、古橋静流です!」
成幸くんのお父さんの手紙で、会えるかもと予想していたせいだろうか、
現実離れが過ぎて、思考が十分に追いついていないせいだろうか。
施設内の一室に押し込めるようにわたしたちを運び、座る間もなく一気にそうまくしたてたお母さんの姿を、わたしは、自分でも信じられないほど穏やかな気持ちで受け入れていた。
パソコンの中の動画と同じ顔。違っているところは病院着だったのが白衣になって、ずっと元気そうなところだ。
「あ、改めまして、唯我成幸です」
「うんうん、文乃をもらってくれてありがとうね」
「お、お母さん!」
「いいじゃない、いい旦那さんになるよ! それに引き換え、零侍くんときたら……だよ! まったく教授に上がる肝心なとこだったから甘やかしちゃったけど、子育ては親育ちだってことぐらい、きちんと仕込んでおくんだったわ」
拳を握って背中に炎を噴き上げるお母さん。その姿に、強く胸に痛みが走る。
亡くなった人は、空からずっと見守っていると言われているけど。
いまの台詞は、つまり。
お母さんには、お父さんと不仲だった、あの10年間も見えてたってことだ。
「……心配かけて、ごめんなさい」
「何言ってんの。数学の楽しさが伝えられなかったから、文乃にもだいぶ苦労させちゃったわね。しかしおっきくなったわね文乃。前にあった時はあーんなにちっちゃかったのに! 上から眺めているのとは大違い」
「ひゃあっ!?」
顔を下げたわたしを後ろから羽交い絞めにするように、お母さんが抱きついてきた。
成幸くんが、見てはいけないものを見たように顔を背ける。うん、いまわたし実の母親になんか揉まれてた。うるかちゃんにされたみたいに。
「あ、あの、いつもこちらで働いているんですか?」
焦った成幸くんの声が、他の話題を振ってくれる。
お母さんは名残惜しそうにわたしを離し、部屋にひとつきりの窓を振り返って指差した。
「そ! 観測所っていうぐらいだから、天の川の水流やら星の動きやら、とにかくあれこれたくさん観測してる!」
そこから見える川の流れは、真っ暗な空の中で水銀の色をしていて、ちらちらとした反射は、流れるというより燃えているようだった。
もう一度成幸くんに目を戻すと、硬直した成幸くんの隣で、お土産の巨大な鳥がのど元を掴まれ、直立不動の姿勢で立っている。今さらだけど、とってもシュールな光景だ。
「成幸くん、それ、渡さなきゃ」
「あ、すみません。よくわからないんですが、父からこれをここに届けるように言われていて」
「まー立派なツルっ! こっちでもなかなか食べられないんだよね、ありがとうーっ!」
抱っこするように鶴を受け取り、歓声を上げたお母さんが、ふっと何かに気づいたように、笑い方を変えた。
「まるで結納の席みたいね」
「え、もしかして、再こ……」
「まさか! 私はこの先もずっと、零侍くん一筋よ。零侍くんがこっちに来た時困っちゃうでしょ?」
成幸くんも同じことを思ったのか、わたしと視線が合った。
「ま、どこの家も、親の考えることなんて同じって話よ。心配しないで、あなたたちは今まで通り、好きなことを全力で好きにやりなさい。改めて文乃と零侍くんにいつも優しくしてくれてありがとう」
「こ、こちらこそ、俺が頼りないからお姉さんみたいにしてもらったりで、」
「そ、そんなことないよ! 成幸くんからはいつもすごく優しくしてもらってます。わ、わたしこそこんな素敵な成幸くんに釣り合うのかいつもいつも不安ですけど、い、一生懸命が、ガンバりますので、これからもよろしくお願いいたします!」
「お、おぅ……」
成幸くんの言葉を遮るように何度も噛みながら、わたしは答える。お母さんに話しているはずが、最後は成幸くんへの挨拶になりながら。
お母さんはいよいよ笑い声を高くした。
「やっぱり将来は安心ね! 遅くなっちゃったけど、きょうは誕生日おめでとう。文乃。ありがとう、わざわざこんな遠いところまで来てくれて!」
誕生日。
その響きに、わたしは、とっても大事なことを思い出す。
「さ~て、せっかくの誕生日だし文乃、なんか食べたいもの、ある? お持たせのツル、さっそく切ってみる?」
「……ううん」
「じゃ、ほしい物ある? 持って帰れるかわからないけどねー」
「ううん、あのねお母さん」
「なあに?」
「わたし、帰らなくちゃいけないの」
お母さんはただ、私のことを見守っている。
その輪郭が……じんわりと光にぼやけている。
「えっとね、お母さん」
「なぁに」
「えっと……」
「ゆっくりでいいのよ」
「ありがとう。お母さん」
「……」
「わたしを産んでくれて、ありがとう」
お母さんは、何も言わなかった。
「きょうは、お母さんが私を産んでくれた日だから。もし会えたら、それは、言いたかったんだよ」
そう言い切ると、ぺこり、礼をする。
なんの心の準備もないままあがった人生の大舞台は、もちろん役者さんのように上手くはいかなかった。
口から出たことばも、お芝居の台詞の方がずっとずっと自然で心を打つぐらい、びっくりするほど陳腐だった。
でも――伝えたかった。
一生に一度、巡り合えるかわからない場面だから、どうしても言いたかった。
お母さんから差し出された指が、微かに震えている。
ほんのわずかに、口元が微笑んでいる。
「文乃」
「うん」
「さっき話したけど、この観測所からはね、いろいろなものが観測できるんだ。お星さま以外も、ね」
「うん」
「これからも、いろいろなことが起こる。辛い、大変だと思うようなことも、きっとまだある」
「うん」
「けどね……ここからの眺めを見るのは、あなたにはまだ早いと思うから――
そこで、幸せになりなさい」
おかあさん!
叫んだような気がしたわたしの身体は、つんのめっただけだった。
額に金属のぶつかる硬い感触がして、慌てて顔を跳ね上げると、ベルトのバックルを押さえ、顔をしかめた見知らぬ誰かが立っている。
すみません、と首を竦め、小さな声で謝りながらわたしは身体の感覚を確かめる。
耳にざわめきが、鼻に密集した車内の蒸した空気が届いて、ぼんやりした記憶が戻ってくる。
帰り道、乗った電車が信号機故障で止まって、運良く座れていたわたしたちは、待ち時間の長さと朝からの睡眠不足で眠くなっちゃって……そうだ!
「なりゆきくんっ」
わたしは隣にいるはずの恋人を揺り動かす。
レンズの向こうで開いていく瞳。その色合いにわたしは……成幸くんも一緒の時を過ごしていたと確信する。
「文乃……戻ってこれたんだな俺たち」
「うんっ」
囁き合ったところで、電車が身じろぎし、重そうに動き出した。立っている人から口々にため息のような声があがる。
首をひねると、換気のためか大きく開け放たれた窓の向こうで、見慣れた光でビルの窓が染まっている。
電車が速度を上げるのに合わせ、冷房のようにひんやりした風に乗って、金木犀の香りが流れ込んできた。
「バスの時間、まだ間に合うかな」
成幸くんの声で腕時計を見ると、今日に残された時間はあとわずか。
――わたしが産まれた日が、もうすぐ終わる。
そう思った時には、口が勝手に動いていた。
「「あの……ッ!」」
告白のときは譲り合っていた声。それをきょうは、我先にと続ける。
「「今日はまだ、一緒にいたい」」
結果、短い距離の真ん中で、お互いの声が重なり合った。
「「あ……」」
小さく呻くけれど、視線は外さない。
「……平気、なのか?」
「うんっ」
わたしたちには、当たり前のように明日がやってくるけど。
いなくなってしまった人、もう会えないであろう誰かとの「明日」は、二度と訪れないと、人は言う。
だけど。
ほんとうは、出会ったその瞬間から、「誰か」はもう「わたし」の一部になっていて。
いつもいつまでも、わたしたちと共にいるのだ。
この瞬間も。
きょうも、明日も、あさっても!
「きょうはまだ、成幸くんとお喋りしたいことがたくさんあるの!」
この瞬間も。きょうも、明日も、あさっても。
誰かが産まれ、誰かが亡くなり、でも決して途切れることなくつながっている、この人の世がある。
その幸せに気づく、そのことこそが。
賢治さんのいう、本当の幸、というのだろう。