日溜まりの夜(Kanon・あゆSS)
「ねえママ、どうしてママはボクっていうの?」
「……」
「ねえママ、どうしてママはうぐぅっていうの?」
「うぐぅ……祐一君、意地悪だよっ」
「シミュレーションしてるだけだぞ」
そう言って、隣室のベビーベッドを俺は見やる。
先端に金色の星を飾ったもみの木の下で、ようやく寝床に釣り合ってきた子供が目を閉じている。
「今から練習しないと後が大変だぞ」
「いいもん、必要になったらできるもん」
「すぐだぞすぐ」
「うぐぅ……できるったらできるんだよっ」
口を尖らせて言い返すあゆ。
でも、できるわけがないのは、昔から何度も何度も実証済みだ。
「じゃあやってみせろ」
「いいけど、じゃあボクも祐一君にリクエストするからね」
「ほー」
「こんなの簡単だよ」
息を吸い込む。
そして。一言。
「――わ、わたし、相沢あゆ、です」
笑いが爆発するのをこらえきれない。
「もうっ! せっかく寝たのに起きちゃうよっ!!」
「ムチャ言うな」
たった6文字を話すのに、息が苦しい。
まあ、言うのを逡巡しなくなっただけ、成長と言えるのかもしれない。
「祐一君は本当に変わらないね。パパなんだよ?」
「しょうがないだろ、あゆ相手なんだから」
言われた言葉に、腕組みをしてふんっと顔をそらすあゆ。
「じゃ、ボクのリクエスト」
「よし何でも言ってくれ」
鼻で笑って、その横顔を見る。
「愛してるって言ってほしい」
「……は?」
既にあゆの腕組みは解けている。
反対に唖然呆然、口を開けた俺にあゆが畳みかける。
「きょうね、『愛してるゲーム』っていうのを高校生がやってるのを見たんだ」
「なんだそれ」
「愛してるって真正面から言って、照れちゃったら負け、ってゲームみたいだよ」
「スマホ世代は変なこと考えるな」
「素敵だよね」
「拷問だな」
「それ聞いて、そういえばボク、祐一君から言われたことないなって思ったんだ」
「……そうだっけ?」
茶化して矛先をそらせようとしたが、狙いは無視され、俺の防壁は正面突破される。
「うん。俺はお前のこと好きだぞ、とか、ずっと一緒にいような、とか一生大事にするっては言われたけど、ストレートに『愛してる』って言われたこと、ない気がして」
重ねられた事実の山に、俺の笑みは消え失せる。
注ぎ終わったシャンパンの泡が、止まって見える。
――完全に予想外だ、これは。
「言われたいな」
「……」
「ボクも、愛してるって言われたいな」
裏のない、まっすぐな微笑みに、俺はどんどん追いつめられる。
肌に汗が浮き、横たわったローストチキンのように光を照り返しているように感じる。
「祐一君が言ってくれたら」
「……」
「あの子もちゃんと寝るようになったし、久しぶりに、してもいいかなって、思ってたんだけど」
そう言って、じっと上目遣いで俺を見つめる。
ただ微笑んで、見つめている。
この反則技を出されたら、男は潔く負けを認めるしかない。
「わ、わかった。じゃあ立ってくれ」
「うん、いいよ」
ぴょんと飛び跳ねるように椅子から飛び跳ね、あゆは俺の目の前にやってくる。
見下ろす位置で広がる栗色の髪を、
「わっ」
躊躇せず俺は胸元に抱き寄せる。
ぽかぽかと、止むことのない日溜まりの温かさが、俺を充たしていく。
真冬の夜でも変わらない暖かさ。
青春の入り口に7年のハンデを負ってなお、少しも陰らなかった太陽の笑み。
幼い時から俺を捕えてしまったその姿を、俺は取り込むように抱き寄せる。
「……ボクのからだ、あったかいかな」
「……当たり前だろ」
冗談でするにはたちの悪いやり取りに少し腹が立って。
順番を先後して、強く唇を奪ってから、俺は心底から言ってやる。
「――愛してる、あゆ」
普段なら入れてただろう、「ぞ」を入れなかったのは、せめてものプライド。
全力で照れるのを期待して。
「愛してるよ、祐一君」
目の前の妻は全く照れずに言い返し、俺を赤面に沈める。
「――祐一君。ボク、家族ってどんな感じなんだろうって、ずっと迷ってた。 お母さんはいなくて。お父さんって、あまり実感がなくて」
「……ああ」
「でも祐一君と、一緒に車に乗って。本物の木を買ってきて。子供のためにツリーを飾ってたら、思えたんだ。ああ、家族だって」
「……」
「だから、祐一君にも、祐一君のご両親にも、本当に感謝してるんだよ」
「そうか」
「いい女になったでしょ、ボク」
「そうだな」
酒も入っていないのに、徹底的に俺は彼女を肯定する。
それでも母になった恋人は、照れない。
「……生意気だぞ、あゆのくせに」
「ボクの勝ち、だね」
子供っぽく胸をそらした姿に、昔と立場が逆転したのが悔しくて、憎らしくて。
「後で覚えてろよ」
「わっ」
服越しに、一年ほど我が子に譲っていた膨らみに手を伸ばす。
身をよじったあゆの肘が深緑色のシャンパンボトルを揺らし、ふたりで慌てて押さえる。
そこで目線が合い、ふっと笑い合う。
ここで落っことし割らなくなったあたり、俺たちは、ちゃんと大人になれたのかもしれない。
「……今晩起きたら、俺があげとくなミルク」
「じゃ、今日はひさしぶりに、飲もうかな」
ベビーチェアの上に乗せた、小さなサンタ帽を軽く整えて、俺はグラスを持つ。
見慣れたカーテンと家具。
そこに、北欧生まれの家具量販店が用意した本物のもみの木が、着飾られて大きな顔をしている。
申し訳程度に敷いたワイン色のランチョンマット。
その上に、久しぶりに登場した、とぼけた顔の天使の人形。
そのぜんぶに目線と、お礼を飛ばして。
「メリークリスマス、祐一君」
「メリークリスマス、あゆ」
澄んだ音が消えないうちに、口の中で騒ぐ酸味の効いた泡を飲み干して。
最愛の家族とのお祝いが。
我が子が寝ている今だけ。
静かに、幕を開ける。