SSの本棚

書いたSSなどの置き場として使ってます。

Princess on a star④(ぼくたちは勉強ができないSS)



 今日は、お買い物つきあってくれて
 どうもありがとう!
 既読 18:28

 いいのが買えてよかったよ。
 旅行、楽しみだな。
 ペンション、俺たちだけで
 貸し切りなんだってさ!
 18:30


 そうなんだ!
 うん、楽しみだね!
 既読 18:31


 あと、今日は時間がなかったけど
 既読 18:32

 ?
 18:40


 わたし、今度成幸くんに
 真剣に話したいことがあるの
 既読 18:42

 俺も
 古橋と、話したいことがあるんだ。
 18:59





 白く光る画面から、普段と違う天井に視線を移す。
 ペンションの隅の薄暗さのせいだろうか、眩しい雪を見続け疲れてしまったせいだろうか。スマホのバックライトが目に痛い。
 信じたいのに、話を隠した成幸くんのこころを疑ってしまう気持ち。アクシデントがあったとはいえ、肝心なところまで踏み出せなかった自分を、後悔する気持ち。
 旅行までそのままにしておくのが辛くて、真新しいウェアを手にした帰り道、成幸くんがひとりになっただろうタイミングで、自分からメッセージを送った。
 最後の返事が来るまでの十数分間は、道端でずっと動けなかった。
 駆け出してしまったうるかちゃんは、耐えられなかったんだろうか。
 とにかくもう、後には引けない。
 退路を断って、不安と快さを同時に抱えたわたしは、だけどまずは、目の前の卒業旅行を楽しもうと決めた。
 話してどんな答えが出るにせよ、成幸くん、うるかちゃん、りっちゃん、わたしたちの関係は今のままではいられない。
 だから、こうしていられる最後の機会は、存分に楽しまなきゃ。そう思った。
 実際、やって来た旅行は楽しかった。

「わあっすごい!! 小美浪先輩も桐須先生もカッコイイですっ!」
「なかなかやりますねまふゆせんせ」
「ふ、普通。ウインタースポーツはまぁそれなりに……というか、まふゆせんせ、は止めなさいと……」
「ぐす……友達の少なかった真冬ちゃんが、こうして生徒さんをたくさん連れて来てくれるなんて、おばさんホンット嬉しくて……」
「黙秘!! 余計なことは言わないで頂戴!!」
「よーし後輩。今日は徹底的に遊ぶぞッッ!」
「ええっ?」
「アタシがスキーの基礎をたたきこんでやる!」

 もう滑ることになんの心配もない身体で、みんなと初めてのスキーで銀世界を転げ回り、成幸くんの家で雪合戦をやった時とは、スケールが違う量の雪で遊びまわった。
 なにせ、当のうるかちゃんと、りっちゃんが。

「あっちで雪だるま作ろっかリズりん!」
「のぞむところです!」

 水を差すような空気なんか、みじんも感じさせず楽しんでいるのだから。
 むしろわたしの方こそ、

「ギャーッ!! 成幸さーん!!」
「予想を裏切らない運動オンチぷりだな、あいつも……」

 木に突っ込み、枝から降り注いだ雪の下敷きになってしまった成幸くんに、一番近い場所にいたのに、

「な、成幸くん大丈……っ」
「もー大丈夫、成幸?」
「あ……」

 何かにつけてワンテンポ遅れ、前に踏み出せない。

「成幸さん、雪ウサギですっ! ちょっと入っていきませんか!」
「でかッ!? 雪ウサギって、そんなかまくらみたいのでしたっけ!?」

(すごいなぁ、ふたりとも)

 りっちゃんと作った『雪ウサギ』の中で、力うどんのお餅を噛みしめながら、終わりの方はふたりに感心して、とりとめもないもの思いに耽ったりしていた。
 そんな幸せな時間は、唐突に終わりを告げる。

「え、嘘? 成幸……って、うえええ? すっごい熱じゃん!誰かー!!」

 ペンションに戻った成幸くんが、熱をあげて、倒れてしまったことで。



「急な熱だが、インフルエンザほどじゃねえな。関節の痛みも無いみたいだし、胃腸も平気。家族にも該当者なしだから……こりゃ、たまってた受験の疲れが出たか?」
「残念。食糧庫に桃缶はひとつしかなかったわ。この雪の中、買い出しに行くのは危険と、止められてしまったし」
「ま、しっかり寝て明日の朝、もう一度様子見だ。熱が引かねーようなら、インフル用の薬をもらいに近くの医者に連れてくぞ。まあ、その時は残念だが家に返すからな?」

 小美浪先輩は、流石はお医者さんの娘さんだ。
 その見立てで、成幸くんが自宅に強制送還にならなかったことに、まずは内心ほっとする。

「……ん? 成幸さん、汗だくですね」
「え……」
「私が、いっぱいフキフキしてあげます」
「はわわわわっ、何やってるのりっちゃーん!!」
「ミンナの前で脱がすなんて、ダイタンすぎっしょリズりん!!」
「いえ、汗だくの身体は早く拭いて着替えさせなければ悪化を……それよりおふたりとも、目を覆うのになぜ指を全開に?」
「あ、あの大丈夫、自分で拭けるから、服、返して……」

 だから、すぐに看病の取り合いになったのもしょうがなかったと思う。
 ひとしきりそれが終わって、食欲はないという成幸くんを残し、みんなでホワイトシチューの夕食を囲んだ。
 よく煮込まれたカブを舌で押しつぶしながら、やりとりするのは、やはり成幸くんの看病のことばかりだ。

「病人には、少しこってりし過ぎかしら。真冬ちゃん、彼にはパンがゆとかがいいかしらね」
「お粉があるのであれば、消化にいいうどん、打ちますけど」
「り、りっちゃん。ちょっとうどん打ちは音が響くよね……」
「では、不本意ですが乾麺から」
「リズりん、なんでそんなに麺持ってんの!?」

 テレビから天気予報が流れて、すこしだけ話題が変わるも、結局、すぐに話はそこに戻っていく。
 ペンションにはカラオケセットも用意されてたけど、とても騒ぐ気分にはなれなくて。
 トランプを持ち出しつつ、早くも眠そうな夏海ちゃんを先頭に、交代でお風呂に入ることにした。
 旅行者の中のトップバッターは、立候補でわたし。ほら、みんなと比べられちゃうのもツラいから、いろいろと。



 ――そして、今に至っている。



 湯上りのタイミングで、スマホを見返したわたしは、みんなのところに戻らず、成幸くんが寝ている部屋の前に歩み寄っていた。
(……どうしてるかな、りっちゃん)
 成幸くんと話す前に、どこかでりっちゃんとふたりきりで話せないかなと思っていた。
 あの日、水泳部のふたりが何を話していたか聞きたかったし、わたしがうるかちゃんの告白を聞いてしまったことも、正直に話してしまいたかった。
 じゃんけんの結果、いまの看病当番はりっちゃんだ。
 出入りで音を立てないよう、少し開いたままにしている扉の隙間から、そっと中の様子をうかがう。
 細い視界の中。
 りっちゃんは成幸くんの横で、こちらにちんまりとした背中を向けていた。
「……成幸さん」
 なのに、わたしを待っていたように、図ったように。
「誰が、好きなのですか?」
「!」
 りっちゃんは、静かに口を開いた。
「――この間の誕生日、3月2日はスリー・ツーで理珠の日ね、っていうのは、関城さんが気付いてくれたんですよ。かわいいスタンプを持っていなかったので、返信、そっけなかったかもしれませんが、お祝いのメッセージすごく嬉しかったです」
「……」
「でも、文乃の時はボールペンをあげていましたよね。わたしたちの中で、誕生日に、プレゼントをもらっていたのは文乃だけでした」
 そうなんだろうか――たぶん、そうなんだろう。
 うるかちゃんが貰っていたら、ぜったい、雰囲気で分かるし、小美浪先輩は4月だからありえない。
 桐須先生がいつなのかは知らない。でもさすがに何かを贈りあったりの関係になど、ならないだろう。
(そういえば成幸くん、『桐須選手』とお付き合いしているなんて言ったこともあったなぁ)
 桐須繋がりで、ふと思い出す。
 今冷静に考えると、どう考えてもめちゃくちゃな嘘だ。まぁ、まさかキスの相手が自分だなんて思わなかったし、成幸くんも、面と向かって言えるわけないよね。それに乗ってきた桐須選手も、どうかとは思うけれど。
「うらやましかったです」
 りっちゃんの声に、わたしは我に返った。
 わたしの存在など意識しているはずはないのに、はっきり言い聞かせるように、りっちゃんは言葉を続けた。
「成幸さん、気づいてますか。私、成幸さんのことが好きです、大好きなんです」
 成幸くんが起きても構わないのだろうか。
 むしろ、起こそうとしているのだろうか。
「いまなら分かります。これが、恋をする、という感情なんでしょう。ずっと私は、成幸さんに恋をしていたのですね」
 りっちゃんの声は止まらない。
「ですが、成幸さんは、うるかさんに告白されたんですよね」
「……!」
 崩れかけた膝に手のひらを押し当て、無理やり止める。
「旅行準備でお会いした時、水泳部の方、言っていましたよ。うるか、ようやく告白したくせになんで返事をもらわないんだよっ、って怒りながら」
 震える膝から、左手だけ離し、みぞおちにあてる。
 覚悟はしていた。
 こんな狡い、卑怯な姿に似合わない言葉だけれど、覚悟はしていた。
(……やっぱり、そうだったんだ)
 それでも、震えが止まらない。
 心臓が、痛い。
 ごめん、りっちゃん。
 気づいていたのに、ごまかして。
 知っていたのに、隠していてごめん、りっちゃん。
「それならうるかさんへ、早く返事をしてあげてください。うるかさんと私が、同時に成幸さんと付き合ったら、浮気になってしまいます。早く、諦めないといけませんから」
「……」
「素敵なものでした、恋とは。どんな本を読んでも、検索しても、素敵なことだと書いてありましたが、まったくその通りでした」
 でも。
 でも。
 二回、そう繰り返されて。


「――恋から覚める方法は、どんな本を読んでも、検索しても出てこないのです。成幸さん教えてください。どうしたら、できるようになるでしょうか?」


 りっちゃんの独白を受け止めきれなくなった身体が、カーペット敷きの床に崩れる。
 分厚いスカートが、しゃがみ込んでしまった音を何とか押し留めたけど、自分の声はそうはいかない。
 膝から口へ手を移し替え、必死に漏れる声を押し留めようとする。
「ない、よ……っ」
 できなかった。
 言葉にせずにはいられなかった。
 断言する。そんなのないよ、ないんだよ。
 そんな方法が、あったなら。
 恋は、素敵なことじゃ、なくなっちゃうんだよ。
「ひとりでしゃべっているだけは、寂しいです。返事してください、教えてください、成幸、さん……っ」
 眼鏡のまま、お布団に顔をうずめて、りっちゃんは肩を震わせていた。
 ――紗和子ちゃん。
 彼女にそばにいてほしかった。助けてほしかった。
 頼まれたって、わたしでは、この気持ちを受け止められない。
 勝手に思い込んでいた。りっちゃんは強いと。
 特別VIP推薦を蹴ったことで、成幸くんがわたしたちの勉強係を辞めちゃうんじゃないかっていうときに、ひとり「一番嫌なのは、成幸さんが幸せになってくれないこと」と言い切ってしまえたから。
 本番が近づくにつれ、うるかちゃんに負けじと、積極的にアプローチをしていたから。
 だからもし恋が叶わなくても、わたしと違って、しっかり前を向けるって。
 もし成幸くんが、わたしを選んでも、喜んでくれるって。
 勝手に思い込んでいた。
 わたしは、この大事な親友の、何を分かったつもりでいたんだろう。
 りっちゃんも。
 大好きな人に選ばれたいと願う、ひとりの、女の子だったっていうのに。
「――成幸さん」
 少しの間があって。
 鼻をすすって顔をあげ、りっちゃんはもう何度目かの、成幸くんの名を呼んだ。
 けれどそれは、いままでの呼びかけより、ずっとずっと低い声色で。
 背後のわたしに、とっくに気づいてるんじゃないか。
 そう思わせるほど凄みのある、まるで追い詰められた悪役が、居直ったようにも聞こえた。




「……キス、してもいいですか」





 飲み込んだ空気に、分厚いセーターの下が鳥肌立つ。
 耳鳴りがする。
 いけないことだと分かっているのに。
 視覚が、聴覚が、目の前の光景を焼き付けようとますます、鋭くなっていく。
「今の私なら、あの時わからなかったことが、何か分かるかもしれません」
「……」
「返事がないので、承諾とみなしますね」
 本気? 本気なのりっちゃん?
 口にされない問いかけは、決して届くことはなく。
 りっちゃんの背中が伸びて、成幸くんの体を覆い。
 幻聴かもしれないけど、わたしの耳には。
 ――はっきりと短い、水音がした。
「寝込みを襲って唇を奪うなど、キスではないですよね」
 右手を顔の方にもっていって、低い声が続く。
 自分の唇を、ぬぐったのだろうか。
「ただ、せめて頬ぐらいは、許してください」
 成幸くんのうめく声がしたけど、りっちゃんは全く動ぜず、洗面器にタオルをくぐらせ、強く絞った。
「本当は催眠をかけてでも聞き出したいですが、人の心も多少は分かったつもりです。だから、待っています。成幸さんが、自ら教えてくれる日を」
 そう言うと、彼女は椅子から立ちあがり、壁掛け時計を見上げた。
「時間、ですね。文乃を呼びに行かないといけません」
 その呟きに。
 わたしは渾身の力で立ち上がり、自分から部屋のドアを開いた。
 息を飲み、ふみの、と驚く彼女の顔が目に映る。
「成幸くんが気になって、早く来ちゃった」
「そ、そうですか」
 あっという間に視線を外した彼女は、さっき触っていた洗面器にもう一度手を入れる。
「水は、まだ冷たいと思いますからこのままで。部屋の暖房は効きすぎているかもしれませんので、調整してください」
 さっきまでの様子は少しも見せず。
 いつも通り。
 いつも通りのりっちゃんの声に似せた、彼女の台詞が続く。
「りっちゃん」
「はい?」
 白い肌に、隠すことなくウサギのように赤くなった瞳を乗せて、彼女は今度こそわたしを見返してきた。
 親友は、わたしの気配を察していたのだろうか。
 確かめるほど、見つめ合う勇気は、いまはない。
 だから、せめて、
「――成幸くん、早く良くなってほしいね」
「ええ」
 いま彼女が見る、わたしの顔に浮かべるのは、本物の感情だけに、したかった。



 窓に、風に舞った雪が当たり、さらさら音を立てる。
 成幸くんと部屋でふたりきりになり、静けさに包まれると、自己嫌悪が襲ってくる。
(また、覗き見なんて――わたしは)
 嘘は、つかなかった。
 だが、それだけだ。
 それが真実に口をつぐんだことの、どれほどの弁解になるだろう。
 りっちゃんは、諦めようとしていた。
 向き合って。苦しんで。その思いをひとりで言葉にしていた。
 寝込みではあったけれど、仮に成幸くんが目覚めてしまっても、やめたとは思えない。
 そんな二人の親友の想いを、ただ同然で知りながらわたしはどうだ。
 友達の助けを得て、思いを伝えると誓いながら、何ひとつ、できていない。
 前に出ることも。真実を語ることも。
 ずるい。
 ひきょう。
 月並みな責め言葉が、頭の中にこだまする。
「――とんだミジンコだね、わたし」
 救いを求めるように、改めて、成幸くんを見やる。
 熱に浮かされ、乾燥して白くささくれだった唇の曲線に、目が離せない。
(……せめてリップだけでも、塗ってあげようかな)
 ポケットの中にあった、お父さんからのプレゼントのふたを取り、起こさないようそっと唇に這わせる。
 まもなくひび割れた部分は消え、うっすらピンクの血色の良い――

(……って、女の子みたいな唇にしてどうするだよっ、わたしっ!!)

 病人にあるまじき、妙につやつやした唇を前に頭を抱える。
「……ぁ」
 そして気づく。
 次にわたしがこれを使ったら、間接キス、になることを。
(ふ、拭かないと。変だしね)
 リップ本体をふき取るためのティッシュではなく、額に乗せたミニタオルを取り上げて、わたしは。
 洗面器の水に浸し、成幸くんの顔をぬぐおうとして、そこで手を止める。
「……悪い、よね」
 頬を撫ぜてしまうのは、さっきの親友の想いに、消しゴムをかけるような気がして。
 そこを避けるように、まずはさっき塗った唇を。
「……ん」
「ごめんね、気持ち悪い?」
 続いて、首元、額、汗の浮いていそうな部分を順に拭っていく。
(結構汗かいてる。もう少し冷やした方がいいかな)
 そのタオルを鼻先に近づけると、水と繊維の立てる香りが……

(って、汗の臭いかぐって、どれだけ頭沸いてるんだよわたしっ!)

 深刻な病人を相手に、一人遊びのように慌てる自分にあきれ返りつつ、改めて苦しそうな成幸くんに問いかける。
「……キス、だったよね。さっきの」
 返事はない。
 代わりに、小さなりっちゃんの背中が、現実のベッドの上に重なって見える。
 場所なんて、小さなこと。
 それは、まごうことなき、恋愛の口づけだった。
「……見ちゃった」
 それを隠した、りっちゃんも。
 気づかないふりをするわたしも。いっぱしの女優だったと思う。
 女優、か。
 眠り姫の舞台を思い出す。
 鹿島さんたちのたくらみ通り、成幸くんが王子様として現れたら。
 どうだっただろう。眠るわたしに、台本通りキスをしてくれただろうか。
 あの時は考えもしなかったけど。
 そうされてたら、今の自分はどんな気持ちになっていたろうか。

(りっちゃんも、今の私なら、あの時わからなかった気持ちがって言って、あ――!)

 回想はそこで止まった。
 刹那のあと、悪寒と共に、頭の中で別のパズルが高速で組みあがっていく。
 あの、キス。
 みんなの成績を落とし、わたしと成幸くんを噂の人にした、学校の勉強合宿のキス騒動。
 あれは。
「りっちゃん、だったんだ――」
 唐突で、何の根拠もないことだった。
 けど、絶対の確信をもって言えた。
「……成幸くん」
 呼びかけて、無言で、反応を待つ。
 熱で浮かされて苦しそうな喘ぎだけが、返ってくる。
 その辛そうな様子に、ほんの少し、ほんの少しだけ、後暗い思いを抱いたわたしは、
「……っ!」
 唇を、力いっぱい噛んだ。
(いま、いま何を考えたんだよわたし。別にそれで成幸くんとりっちゃんに何かあったってわけじゃないのに!)


『武元さん……唯我さんにキスしていました』


 なのに。
 聞きたくないのに、鹿島さんの声が、頭の中から鼓膜を震わせてきて。
 わたしは、肘ごと身体を抱きしめる。
 自分の中に生まれた、認めたくない感情を抑え込むために。
 そんなこと絶対にできないと、分かっていながら。


 ――それが、何かの事故であっても。
 親愛の仕草に似せた、何かであっても。
 親友たちが、唇を奪ったことには、違いないのだから。


 この気持ちが、もう魔法のように消せることなどないだろう。
 セーターの膨らんだラインを触りながら、わたしは椅子から腰を浮かせ、りっちゃんと同じように成幸くんに覆いかぶさる。
 お腹が緊張でじくじくする。
 病気なら、たぶんうつる。
 熱っぽい呼吸を直接感じる距離まで、顔を近づける。
「……」
 親友たちは、彼と直接、口づけを交わした。
 わたしは、布越しだ。
「……」
 頬を重ね。
 首だけを回して、唇で頬をさする。
 ベッドについた腕を曲げ、より、体を沈みこませて。
 頬に沿わせた唇を、口の端まで、滑らせる。
 突き上げる背徳感で、心臓が喉から押し出されそうだ。
「う……」


 そして……わたしは。
 熱を出して、寝込んでいる男の子の、唇に、唇で触れた。
 成幸くんに、キス、した。


 一瞬かすっただけのそれでは、何ひとつ変わることはない。
 それでも。
 飛びのくように椅子へ戻り、全身を震わせ、禁忌を犯した自分の唇へ、指を伸ばす。
 わたしの、中に。
 こんな情欲があるなんて、信じられなかった。
 乾いた唇の感触に、意識がぼおっとする。
 お腹を苛む、じくじくが止まらない。
 止まれ、止まれと叫び出したいような、胸を叩きたいような鼓動に合わせて、自分をあざける言葉が、頭の中で文字となって、無数に浮かび上がる。
「でも……好きなんだよ」
 幾重にも連なって責める声を、その一言で打ち消していく。
「わたしだって……成幸くんが、好き、なんだよ……っ」
 覚えのある、塩辛さを味わいながら。
 繰り返す。
 好き。
 胸が苦しい。
 胃が締め付ける。
 好き。
 好き。
 バレたらどうしよう。
 気付かれたらどうしよう。
 好き。
 好き。
 好き。
 親友を、裏切ってでも。
 好き。
 すき。
 すき。
 キスしたい。
 キスしてほしい。
 この気持ちは、





「文乃っ、ち……?」





 ――くわんくわん。
 どんなに、頭の中で声を響かせようとも。
 現実の音は、消せない。
 凍り付いた身体を振り向けた先に。
 うるかちゃんが取り落とした、金属の洗面器が、床で踊っていた。