SSの本棚

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Princess on a star⑥(ぼくたちは勉強ができないSS)

「実はまた、猫を預かることになってだな」
 緊張に満ちて応じたわたしの第一声と、返ってきた気の抜ける内容との落差は、なかなかに強烈だった。
 ハアッ!? と素っ頓狂な声をあげなかった自分をほめてあげたい。
 怪訝そうな面持ちのままソファ上で見守る仲間を視界の端にとらえつつ、わたしは努めて真面目な顔で、談話室の隅まで移動する。
「猫って」
「前に大騒動を起こしたあの猫だ」
 その一言に、つぶらな瞳のトラ縞が記憶から飛び出てくる。
「フミ?」
「名前は忘れたが、前と同じだ。明後日には戻る予定だったな」
「えっと、帰りは夜になる予定だけど」
「ん……極めて言いづらいのだが、もう少し早く、戻ることはできないか」
「え」
「急遽会議で大学に行かざるを得ないのだ、その間、家が猫だけになってしまう。午後着なら助かる、のだが」
「あさっての、午後……わたし、集団行動してるんだけど」
「……すまん」
 予定も確認せずに勝手に、と不平が頭によぎったけど、珍しく向こうから素直に謝ってくるなんて。先方もうちが預け先として適切、と思ってくれたということか。
「ちょっと相談してみる。すぐかけ直すから」
 通話終了のボタンに息をかけて、天井を仰ぐ。
 心は揺れていた。相手は可愛いフミだ。加えて成幸くんの膝の感触、きょとんとされた顔、いいことも腹立つことも、愛憎半ばする記憶が頼んでもいないのに引っ張り出されて、胸がざわついてくる。
 けれど、ここでお別れしたら、成幸くんには次にいつ会える?
 まだあと一日猶予はある、無理難題ではなく実現可能なお願いだ。ほんの数時間、いろんな人を困らせてどうする。
 でも、わたしは。
 この気持ちを昇華しないまま離れてしまうことなんてできない。
「どーったの、文乃っち?」
「あさって早く帰ってこれないかって。まったく勝手なんだから」
「あさって? 明日ではなく? 急がなくてよいことなのですか?」
「預かった猫のお世話なの。その時間誰も面倒みれなくなっちゃうからって。前も面倒見て、かわいい子ではあるんだけど……」
「へー、じゃみんなで戻ろ! あたしらにも見せてよ!」
「へ?」
 時計を覆い隠すように立ち上がったうるかちゃんの、あさってからの提案に目が白黒する。
 なぜ?
「成幸、熱上げちゃったし、明日元気になってもスキーはムリっしょ。熱下がんなくて明日帰されちゃったら、長居しても気兼ねしちゃうし、だから予定、ちょい巻き気味で」
「あ……」
 そうか。
 うるかちゃん、ちゃんと成幸くんのことを。
「賛成です。皆で楽しむための旅行ですから。ネコに会いにお邪魔するのは、文乃次第ですが」
「アタシも困んねーぞ、前倒しでも」
「……いいん、でしょうか。うちの勝手な都合で」
「同意。確かに雪山は過酷でしょうし、それなら明日は、予定していた水族館へ行きましょう」

 

    

 そして、次の日。
「成幸さん、早く早くです!」
「って早い早いっ! こっちは熱が抜けたばかりで、まだそこまで元気がっ」
 わたしたちが心待ちにしていた成幸くんは、元気を取り戻した。
 ペンションから車で送られた水族館は、予想以上に大きくて、お洒落で、
「めっちゃ魚!」
「どれがうどんに合いますかね?」
「魚市場じゃないよ、りっちゃん!」
 わたしを含めたみんな、成幸くん復活の喜びとの相乗効果で、はじめからそわそわしっぱなしだ。お互い、目を合わせては牽制するような、成幸くんを気遣って遠慮するような、どことなく足が地につかない感じで。
「にひひ……」
 そんな雰囲気が面白くて仕方ないのか、含み笑いを漏らしっぱなしの小美浪先輩が、泳ぐように成幸くんに近づき不意にその肩を引いた。
「こーはい? あっちの売店でドハっちゃんグッズ売ってんだけど」
「はい?」
 瞬間、膨らんだ風船に針が差されたかのように、均衡は破られる。
「成幸さん、あっちにシロウサギウミウシなるものが!」
「あっホラ、イルカショーだってさ成幸! 頼んだら一緒に泳げるかな!?」
 先輩を撥ね飛ばさんばかりの勢いでふたりが成幸くんの手を握り、股裂きにするかのように引っ張りだす。
「お、おい! 病み上がりをあんま走らせんでくれよ!」
「しっかたないなぁ! 手貸してあげるから」
「一名様ご案内~、です!」
「お、おいちょっと近いよ近い! わかったからっ、自分で歩けるってば!」
 大騒ぎの綱引きはりっちゃんが勝ち、成幸くんは凧のように通路を飛んでいく。
「リズりん、あんな力あるんだね~。文乃っち、エンリョしてると、もってかれちゃうよ?」
 うるかちゃんがおでこに手をやりながら、どこまで本気かわからない台詞を呟いた。
 汗を拭うような彼女の仕草に、思わず苦笑する。覚悟はしてたけど、やっぱりふたりは手強いライバルだ。
「喧騒、一晩寝込んでいた相手に、やれやれね」
 ううん、苦笑仲間はもうひとり。桐須先生も、楽しそうにその背を見送って感想を漏らしていた。泊まり掛けの旅行だけど、不純異性交遊と咎めるそぶりはなく、その目はあくまで穏やかだった。
「唯我君、元気になってよかったわね」
「ええ、とっても」
 先生とこんなやり取りをする日が来るなんて、勉強係として相対してたときには考えもしなかった。本当に、何でも終わってしまうまでは、分からないものだ。
「休憩。私はカフェで少しのんびりしてるから、気が済んだらここに戻るよう伝えて頂戴」
「わかりましたっ」
 桐須先生の伝言を受け、まずは火付け役の先輩にひとこと言ってやろうと思ったわたしは、
「……あれ?」
 既にみんなの姿がどこにもないことに気づく。
(まったく、元気だなぁみんな)
 とりあえず、ひとりで順路を進んでいく。
 上の方の仕切りがない、カラフルなウミウシたちのコーナーを過ぎると、急に辺りは暗くなった。
 ジェリータワーと銘打たれた、筒型のクラゲの水槽。赤い照明に照らされた深海魚のケース。大きな蟹の散歩するケースも、光が赤黒い。解説板が照らす場所以外、暗がりに包まれた館内は、まるで夜のようだ。
(すれ違ってもわからないかもね、これは)
 展示物とお客さんを流し見しながら、扉型にくりぬかれた長めの通路に入る。
 向こうから青い光が広げられて目が眩み、瞼を細めたままわたしは足を速める。


 そして、周囲が開けた。


 背丈の何倍もあるガラスが嵌め込まれた、大水槽。その後ろも、たっぷりと空間がとられていて、平日に見学する少ない人影が、よりまばらに感じる。
 緑がかったその青の中を、銀の光が群れで横切っていく。
(イワシの大群……)
 綺麗。
 なんだか、まるで。
「星みたい、だな」
 口をついた呟きを拾う声に、分かっていながらその主を確かめてしまう。
「成幸、くん」
「古橋」
 水族館って思ったより広いんだな、とひとりごちるその側を、ウミガメが音もなく過ぎ去っていった。
 ハンマーのような頭のシュモクザメが、過剰なぐらい尾を揺らしながらこちらに近づき、脅かすように急反転する。
「みんなは?」
「……わからない」
 水の中に立つ半透明の成幸くんが、かぶりをふる。水槽のガラスに手をつき、ため息をひとつ吐いて、水の中の喧騒に目をやっていた。
 その態度に、既視感があった。
 お買い物の日、更衣室でのぎこちない動き、それによく似ていた。
 手を引いていたはずのりっちゃんに、何故か触れない成幸くん。
 わたしたちのスマホを鳴らそうとしない、りっちゃん。
「……そっか」
 遠慮しなかったんだね、りっちゃん。
 板ひとつ向こうの喧騒は、音もなく激しさを増していた。青緑色に感じていた水は、魚の照り返す色にかき混ぜられて、いまは明るい空色のよう。
 かすかなざわめきをBGMにした、静寂の空。
 わたしは深呼吸をし、入口から巻いたままだったマフラーを、首から抜き去った。
「――成幸くん、わたしに話したいこと、あるんだよね」
 尋ねた声に反応したように、館内の照明が動いた。雲間から光が差したように、わたしの足元に丸いステージを作る。
「よかったら、いま聞くよ?」
「……古橋が、先でいいよ」
 水槽のガラスへ映る、優しげで、だけど憂いを含んだ顔。わたしは、そこへ向かって語りかける。
「わたしね、最近ある人のことをずっと考えてる」
「……どんな?」
「朝起きてまず、あの人も起きたかなって、考えてる。ごはんを食べながら、何食べてるかなって、考えてる。本を読みながら、笑いながら、どんな風に思うだろうって考えてる。お風呂も、眠る時も、夢の中まで、一日中考えてる」
「……」
「目の前にいるときはね、わたしのことどんな風に見てるんだろう、どう思っているんだろうって思いが、ずっと頭から離れない」
「それって」
「うん、恋なんだと思う。毎日繰り返す光景が、輝いて見えて、星を眺めているときのようにときめくの。気づいたんだ。わたしの頭の中を埋め尽くしているのは、その人が好きだって気持ち」
 だからこの先も、この幸せを持ち続けたいと思う。
 叶うことなら、もっと側で感じてみたいと思うの。
 あと二歩も近づけばぴったり重なる距離で、ひとり、言葉を重ねる。
 話すにつれ、胸が高鳴っていく。
 わくわくしてくる。
 おかしなぐらいだ。昨日まではあれほど、切り裂かれるほど思い詰めていたはずのに、不安や苦しさは、ちっともわいてこなかった。

 


「わたし、成幸くんのことが好きなの」

 


 ちゃんと向き直って告げた気持ちは、おはよう、と言うように、笑顔で口から手渡すことができた。
「成幸くんの気持ちは、どう、かな?」
 わたしは続けて問いかける。
 うるかちゃんが進めなかった、その先まで。
「……ありがとう」
 感謝のことばと正反対に、目の前の顔は、見る間に辛そうに俯いていき。
 ズボンの裾を掴んだ成幸くんは、細かく震えだした。
「ありがとう古橋。気持ち、すごく嬉しい」
「うん」
「このままうんと言えたら、どんなに幸せかなって思う……でも」
「……でも?」
「うまく言えない、けど。けど俺にとって古橋がどんな存在なのか、自分の中で、決着がついてないんだ。こんな中途半端な気持ちのまま、古橋の真剣な告白に答えられない。それを曖昧にしたままじゃきっと、大きな間違いをしてしまうような気がする」
「……」
「だから……ごめん。本当に」
 それは、わたしの告白を断る言葉のはずだった。
 だけれど。
 わたしは、湧き上がる気持ちのまま、それに微笑んでいた。
「――それはつまり、『返事は保留』ということでいいかな、成幸くん?」
「え?」
「この一年、一緒に過ごしてきて成幸くんが、うるかちゃんにも、りっちゃんにも優しかったことは知ってる。あ、小美浪先輩にも、ね?」
 手を後ろに組み、水槽の方へ1歩。
 その距離を保ったまままま、首だけを成幸くんへ回す。
「中でもうるかちゃんとは、たくさん思い出があると思う。でもたとえ、みんなとの間にこれまで何があったとしても、わたしは、成幸くんの隣にいたいと思う」
「……ぁ」
 驚いて顔をあげた成幸くんが口を「あ」の形に開き……そして首を振った。
「わたしが好きって言ったことが、いま、成幸くんを苦しめているかもしれない。でも、伝えたこと、後悔なんてしない。『間違いだったかどうかなんて、本当に終わっちまうまでわかんねーもんさ』。わたしにそう言ったのは、成幸くんだよね?」
 星の名前だとパソコンのデータに課せられたパスワード、それがお父さんの名前じゃないかと思い出したあの日。
 核心に辿り着いた嬉しさを味わった次の瞬間、それでもわたしは、星空の下の草原で震えた。
 その記憶が、パスワードがもし誤っていたら。reijiとreiziのわずかな違いでさえ、機械は許してはくれない。
 それに、パソコンに遺された論文を読んだ時、お父さんは何を思うのか。やはり才能の大切さを信じ、より頑なに自分の夢を認めてくれなくなるんじゃないか。
 力強く応援されたばかりなのに。それを疑うように怖じ気づき、膝を折りそうになったわたしに、成幸くんはその言葉を贈ってくれた。
 親父の受け売りだけどな、って。
「あの時と、立場は逆だね」
 ひとりで立ち向かわなきゃいけない問題。
 不安ならついて行くか、という申し出に、大丈夫、わたしきちんと向き合うよと言い切って、わたしは家に帰った。
「わたしはお手伝いはできない。けど、本当にやりたいこと、わたし全力で応援する。いっぱい悩んで、気持ちの整理がついたら、改めてお返事ください」
 勉強といっしょ、こころの成長曲線は螺旋階段のようだ。
 元に戻って同じところでぐるぐる回っているようで。気付いたときには、いつかの場所より、ずっと高いところにいる。
「でも復習。女の子との気まずい思いは、距離をおくとかじゃ、何も解決しないんだからね!」
 呆気に取られる暇も与えずに。
「さ、みんなを探さなきゃ!」
「わ、わわっ!?」
 わたしは腕を掴む。
 引く。
 改めて、不思議だ。
 悲しみも、苦しみも、頭の中にはちっとも見当たらない。
 もし成幸くんから返ってくるお返事がどちらだったとしても、断言できる。
 好きな人に、誰に邪魔されることなく、思いっきり好きと言えたいまの心地は。
 螺旋階段の上、見晴台で見た景色のように広々として、清々しくて。
 そして、最高の気分だった。