暗がりの向こう、扉の方角から放たれた、一条の橙色の光。
「来たね」
「明かり、つけたほうがいいですよね」
「うん」
手元の懐中電灯のスイッチを入れ、赤い灯を大きく振って応える。
雪を踏む音。駆けてくる音。
その背を押すように、ペンションを灯す明かりも元に戻った。
わたしたちの互いの顔も、夜に浮かび上がる。
一心に訪れを待つ顔。
あれからいくつも季節が過ぎ、少し大人びたわたしを見せたいと思う顔。
そこに、いつものままの君が、近づいてくる。
「こんばんは、成幸くん」
「あぁ。寒い場所で悪いけど――みんなに待たせていた、返事をいま、させてくれないか」
はぁはぁと、まだ荒い息。
それが落ち着くのを、わたしも、うるかちゃんも、りっちゃんも無言で待っている。
ようやく、来てくれた。
膝に手を着く成幸くんが、自分の息で白く包まれている。
それを見守る肌に、もう寒さは感じない。
やがて、息を整えた成幸くんが、わたしたちではなく、夜空の一点に向かって言葉を放った。
「トラペジウム」
その場所に座る星座を見て取ったわたしは、続けたいだろう説明を、あえて自分から引き取る。
「オリオン座のM42星雲、次々生まれ来る星のゆりかごの中に輝く、四つの星だね」
小3つ星のそばに、人の目でも見つけられる薄曇り。全天で最大の星雲を光らせる、強い輝きの星々だ。
「さすが古橋。星の事は詳しいな」
下ろした視線が、成幸くんと結び合う。
「できないことばかりの俺にとってみんなはさ、そんな眩しい存在だったな、って」
「成幸」
成幸くんが呼びかけに応じて、うるかちゃんを向いた。
「親父が死んで、水希と塞ぎ込むだけだった俺に声をかけてくれて、人の何倍も頑張れば、届くかもしれないって全力で示してくれた。俺を特別VIP推薦のある一ノ瀬まで歩かせてくれた、原動力だったよ。センターの時は、弱気になった俺を、あたしがついてるからって、絶対にあきらめさせようとしなかった。いまも海外に一人きりで留学する夢に、恐れず立ち向かっていく、俺にとって憧れで、家族と同じぐらい近しくて、頼れる姉みたいな、うるか」
「成幸さん……」
「緒方はさ、最初はつっけんどんで、言い出すことはみんな突拍子もなくて。社交性のない俺がさ、この弟子には、勉強よりも先に教えることがあるって思わされたぐらいだ。なのに、あっという間に俺を追い抜いていってさ、進路に迷った俺を、迷ってる場合だ、甘えさせてあげるって支えてくれるぐらい頼もしくなって。藍より青し、って、こういう事なんだなって分かったよ。弟子改め、戦友、っていうのかな」
成幸くんの眼差しが、ペンションの方に向き直る。
「先輩……小美浪先輩は、文字通り先輩でさ、こっちの動揺をいつもからかって、遊ばれてるみたいで。なのに見えない所では怖いぐらい努力していて、自分の立ち位置には、いつもクールで、かっこよくてさ。さっきまでも諭されて。たった1歳の違いなのに、強いひとだよ。先輩は」
予感に、胸が震える。
まだ、呼ばれていないのは、わたしだけだ。
「俺、たくさんのことを教えられたんだ。自分を奮い立たせること、応援すること、人を支えること、自分の進もうとした道に動じないこと、信じること……そんなみんながしてくれたみたいに、俺は、自分が好きな人の夢を一番傍で支えたい」
成幸くんが、私を見た。
「俺にとっての異性は、ずっと妹の水希か、うるか。その友達しかいなかった。ずっと男友達と話すようなままで生きてきて、何も困らなかった。でもその子に出会って知ったんだよ。女の子は男とは違う、繊細で複雑で……いろんなことを気遣い、大切にしてあげなきゃいけない、存在なんだって」
そのまっすぐな視線に、瞬きもできない。
「女の子の気持ちを、教えられながら勉強みたいに解いていた時は気が付かなかった。なんだか説明できないもどかしさを感じながら。逆効果になっちゃうぐらい、恥ずかしい思いしても誕生日のプレゼントが渡したくなる気持ちにも、説明をつけようとしなかった。それがようやく恋だって気づいたのは、最後の、最後。もう卒業するんだよねって、いつもの場所で言われた時だった」
雨のにおい、両手で感じたブレザーの感触、背中の温み、涙の味。
あの日に戻ったわたしが、嬉しさで涙を伝わせる。
おなじ、だったんだ。
なりゆき、くんと。
「こんなに俺、この人のことが好きだったんだって。そうしてやっと認められたんだ。星を見上げながら、この女の子を寂しさから守ってあげたい、流す涙を止めてあげたい、夢を応援する俺に笑いかけてほしいんだって思ったことを。そこから、どうしようもないぐらい、好きになってしまったんだって」
初めて体験した賑やかな家庭の食卓、泣きながら机で眠りに落ちた夜。
もどかしいぐらい何もできない家事。倒れ込むように布団に運ばれた日。
自転車で連れ出された野原。
掴まれた手、言い切られた言葉。
家に帰る道で、家族の温もりへの憧憬に、こぼれてしまった涙。
そして。
はじめて異性に安心して身体を預けたベンチ。
――冷えた空気が煙る白さで、わたしは我に返った。
白くなった視界が落ち着くまで、静かな間があった。
「古橋文乃さん、俺は、あなたが好きです」
「あ……」
心の準備は、したつもりだった。
大好きな成幸くんが、わたしを選んでくれようとしている。
わたしのことが、好きだと言ってくれる。
言葉の流れから、薄々、感じていた。
「……っ」
それでも。
わたしの嬉しさは、ことばと結び付かなかった。
本で読んだ数えきれない美しい修辞も、ごく短い感嘆さえも、なにも。なにも。
「今まで、ずっと勇気が出なかった。この居心地のいいみんなとの関係が、壊れてしまうことが、怖くて」
「……成幸」
「最初に告白された、うるかを傷つけることが怖かった。ううんもっと自分勝手だ、古橋にそれを伝えたら、大切な恩人を裏切っていいのと聞かれるのが、それにきちんと答えられないのが、怖かったんだ」
「なりゆき、くん」
「だから隠した。うるかの告白があったことを。ウソをついた、それを知られたくなかった、自分が弱かったせいで。だから……みんな、ごめん」
成幸くんは首を振った。
でも、その顔を、昼に告白した時のようにしかめたりはしなかった。
「それでも……たとえ深く傷つけることになってしまっても、真剣な気持ちに正直に答えないことは、勇気を出したみんなに失礼なんだって気づいたんだ。先輩に教えられる、情けないけど形でだけど、さ」
ううん、成幸くん。
わかるよ。わたしも、そうだったもん。
自分だけでは、自分の本当の気持ちに気づけなかった、
勇気をもって踏み出すことが、できなかった。
誰が何と言おうとわたしだけは、受け入れるよ。
だって、できなかった人の気持ちがわかるのは、できなかった人だけ、だから。
「後出しで、男らしくもなくて」
うるかちゃんも、りっちゃんも、先輩だってきっとそうだよ。
成幸くんがいなかったら、側にいたみんながいなかったら、ひとりきりじゃここまでこれなかったって、知ってる。
自分を思ってくれる仲間が、自分のために一生懸命になってくれたから、今日ここまでやってこれた。
「カッコ悪いけど」
「――かっこ悪くなんて、ないよ」
聞こえるか分からないぐらいの声でそう紡ぎ、首を振る。
「約束する。俺、古橋のこと、一生懸命幸せにしてみせるから」
「うん」
伝えたいよ。
わたしたちの思いに真剣な成幸くんは、世界で一番、かっこいいって。
「古橋、俺を信じて付き合ってくれないか」
「……うんっ」
「……へへっ、今まで見たなかで一番カッコよかった、成幸」
「ごめん――ちゃんと、返事できないまま、ここまで待たせてごめん、うるか」
「何言ってんの、お返事はいらないって言ったのはあたしだし。これでスッキリしたから、明日からは、いつもどおり、だかんね!」
「まあ、今日のところは文乃の勝ち、でしょうか」
「緒方」
「恋愛だけが、男性との関係ではないでしょう、友情だって成立すると私は思います。だから、私はこれからも成幸さんと友人でいたいと思います」
「りっちゃん……」
「まぁ私は、まだ人の心に疎いですから。心理学を学び、今の気持ちが、男女の好きでしか解消できないと分かった時は、改めて成幸さんをいただきに上がりますから」
「え、えと、りっちゃん?」
「覚悟してください文乃。これからもずっと私は、文乃の側で見ていますから。成幸さんを幸せにしなかったら、その時は遠慮なく、私が取っちゃいますからね! それから成幸さん!」
「は、はいっ!?」
「今の告白に、私、どうしても解せないところがあります」
「な……なんだよ?」
「うるかさんのことはうるかと呼び、文乃も成幸くんと呼んでいるのに、どうして成幸さんは、文乃の名前を呼ばないのですか」
「あ、あの?」
「同じ女性として、納得がいきません、やり直しです。ちゃんと名前で呼んであげてください!」
「お、おぅ!?」
思わぬ横入りに、わたしと成幸くんは立ち居振る舞いから戸惑う。
取りあえず、靴先を見つめたまま1歩前へ。
成幸くんの足も、1歩前へ。
ぎこちなく顔をあげようとしたわたしたちは、
「おわっ!?」「うぺぇっ!?」
痺れを切らしたふたりに、勢いよく突き飛ばされ、
「あ……」
抱き合うところまで、一挙に距離を縮めた。
不意に鼓動が激しくなる。
一緒に買ったウェアがこすれ、ぽんぽんのついた帽子にくるまれた頭は、ストーブをつけたように一瞬で熱を持つ。
この暗がりでも色が分かるほど、わたしの顔は染まっているだろう。
恥ずかしい。いったん仕切り直したい。
そんなわたしの気持ちと裏腹に、背中に回されている成幸くんの腕に、ぐっと力がこもった。
(え……?)
目の前の顔が少し傾けられ、目が細く閉じようとしている。
――この先はきっと、誰もが知っている、好きを伝える仕草。
頭では知っている。告白はゴールじゃない。この先の未来へ歩いていくためのスタートラインなのだから。
分かっている。それは、とても幸せなことなのだ。
けれどいきなりすぎて少し、怖い。
あらゆる感情が溢れすぎて、自分だけではもう抱えられない。
――だからわたしは、大好きな人に、身も心も、ぜんぶ委ねた。
「……好きだ、文乃」
「改めて成幸くん、わたしもあなたが大好きです」
溶け合ったばかりの唇に、改めて愛を乗せ、確かめ合う。
「……おめでと、ふたりとも」
「あえて口にしませんが――言いたいことは分かりますよね、それくらい」
ポケットで震えるスマホを無視して、わたしは大好きな人を、自らもう一度抱き寄せる。
言葉にならない思いが、少しでも伝わりますように、と。
2億年かけて銀河を一回りする太陽の船の、空と海があるたったひとつの星の上で。
宇宙の単位では瞬きする間ですらない、人の生涯の、たった1年の間に。
それぞれが素敵な仲間を伴った、煌めく星のような仲間に出会い、笑って、泣いて、恋をした。
そのすべての出来事が、まるで、天文学的な奇跡のように思える。
ねぇ、お母さん……。
星の数ほど別の人生があったとして、
色んなわたしの色んな可能性があったとして、
そんな無数の選択の末に、今この瞬間があったとしたら。
こんなに愛おしいことはないと思わない?
To all readers,
Thank You for Reading!