Princess on a star①(ぼくたちは勉強ができないSS)
ある世界の恋物語が、教えてくれました。
「青春は恋だけじゃ育たないから」って。
だからさぁ、手を出して。
行こう。
この星の、願いが叶う場所へ――
すき。
わたしの頭の中を、その二文字が埋め尽くしていた。
人通りが消え、黄金色に染まった黄昏時の通学路。
白いハーフコート、黒ストッキングにブーツ、幅広のマフラー。
春が来るというのに吹く風はまだ冷たいから、いつもの冬支度に身を包み。
「大好きだよ」
真夏で焦がしたような小麦色の肌を赤く染めて。
うるかちゃんが、成幸くんに告白していた。
(……こ、これって!)
慌ててわたしは、目についた電柱の裏に身を隠す。
卒業旅行の事、伝えといた方がいいよね。
校門で別れた後、ふと思い出したことを伝えに駆け戻った先で、まさかこんな場面に出くわすなんて、思ってもみなかった。
確かに成幸くんの家の方角だったけど、うるかちゃんはここで、成幸くんの帰りを、ずっと待ち伏せしていたんだろうか。
「練習でも嘘でもないかんね。中学の時から5年間ずっと、ずっと好き」
そこは、どこか誰かの家の、塀の前だった。
ふたりにとって特別な思い出なんて、あるわけない。
きらめくイルミネーションも、降り注ぐ雪や雨の舞台装置もない。
なのに、 後ろ手に手を組み立つ姿が、誰彼時の雰囲気を、映画のワンシーンに変えていく。
マジック・アワー。
あぁ、今の時間は、そんな風にも呼ぶんだったっけ。
「……あー、スッキリした!」
次の瞬間、カット! の声が入ったように、いつもの声がそう言い切るのが耳に届く。
うるかちゃんらしい、鮮やかな切り替えだった。
「だからね、返事とかしなくていいから成幸、卒業式の前にみんなで卒業旅行、行かない?」
成幸くんの声は返らない。
でもきっと、頷いたのだろう。
「――じゃね」
それきり、規則正しい靴音が遠ざかっていく。
その音が消えてから、こっちに走ってきてたら危なかったなと、いまさら気付いて、
「……そっかぁ」
わたしは、大きく息を吐く。
ついに伝えたんだ、うるかちゃん。
――中学からずっとずっと、もう意味わかんないぐらい好きなんだから。
遠い昔、スマホ越しに目にした彼女の想い。
そんな強い好きが形になった瞬間は、言葉で例えられないほど、美しいと思った。
「よかったね、うるかちゃん」
そう言葉を発したその途端。
「いだだだっ!」
なぜか、胃がねじられたような痛みを訴えてきた。
えっと、胃薬持ってたっけ、最近はあんまり使う機会もなかったから怪しいかなぁ。
思いを巡らせながら、鞄の底をあさる。
「あったよー!」
指先にひとつきりの袋の気配が返ってくると、そこからのわたしの行動は早かった。
封を切り、水もなしに粉をぜんぶ放り込む。
たちまち独特の臭気が、口いっぱいに広がる。
「うぺぇ……」
苦くて臭くて、嫌になる。
しかめ面を浮かべたまま、舌で粉をお団子のように丸めていく。
飲み下す。
残り香の味に、思わず目をぎゅっとつぶると、どーんと落ち込む、親友の顔が浮かんだ。
そうだよ、りっちゃん。
りっちゃんは、きっとショックだよね……。
わたしからでも、教えた方がいいのかな。見てしまった以上、黙ったままは、よくないよね。
でもそしたら……卒業旅行、行くのかな。
「――古橋さん?」
「わっ!」
おずおずと掛けられた声に、思わずえび反りで飛び上がる。
「やっぱ驚かせちゃったよ」「かしまん、背後からはダメっス」
「みんな」
いたのは、猪森さん鹿島さん、蝶野さん。
みんな揃って心配そうな表情だけど、まとっている雰囲気は明るい。3人も無事合格したんだろう。
「あの……いかがでしたか」
「うん、おかげさまで、わたしたちもみんな、合格しました」
おずおずと切り出された鹿島さんの問いかけに、みんな、の部分に力を込めて答える。
ぜんぶ、成幸くんのおかげ。
成幸くんのおかげで、みんなが、希望の進路に踏み出せたんだよ、とメッセージが伝わるように。
「よかったです」
そう聞いた鹿島さんは、満面の笑みでわたしの手を取った。
――嫌な予感がする。
そうだこれは。文化祭の時の、あの台本を渡された時の顔だ。
「では、これから少々、お付き合いいただけませんか~?」
「どうぞご遠慮なく~」
「え、えっとこれは」
まっ平に広げられた、何十畳敷きもの畳が奏でる、い草の臭い。
その上で、わたしは目を白黒させ立ち尽くす。
天井から吊り下げられた黒い柱のようなサンドバックを背に、おろしたての胴着を差し出してくる、胴着姿の鹿島さん。
確か、少林寺をやっているとは言っていたような。
「卒業までに、一回ぐらい、一緒に汗を流したいなと思いまして~」
「他の武術の見学も」「これはこれで、いいもんっスね」
猪森さん、蝶野さんからも合いの手が入るけど、まったく頭がついていかない。
「受験でなまった身体をほぐすにもちょうどいいですし、万一ケガしても影響は少ないですし」
なんで終わった直後のいま、なんだよ?
無言の問い掛けがあからさまに態度に出ていたのか、鹿島さんは、やや、言い淀むように言葉を口にした。
「――とりあえず体を動かしてみたら、面倒な悩みも、結構忘れられるような気がします」
彼女なりに選び抜いた言葉だったのだろうけど、さっと、わたしの身体の中に霜が降りる。
それきり鹿島さんは、気づかわしげな視線でわたしを捉えたままだ。
申し訳ないけれど、ありがたさよりも、鬱陶しさを感じてしまった。
「ありがとう。でも、いいんだ」
「……」
「さっきの告白のことだよね、鹿島さん」
無言を埋めるように、わたしは言葉を投げ込んでいく。
「うるかちゃんね、ずっと成幸くんのこと好きだったんだ。相談も受けてたんだよ、わたし」
「古橋さん」
「うるかちゃんの気持ちを、成幸くんは無下になんてしない。だからうるかちゃんおめでとう、なんだ。わたしも応援した甲斐が、あったってもんだよ」
瞬間、鹿島さんが消えて。何本ものムチで打たれたような音を立て、吊り下げられた革製のサンドバックが震えた。
ぎし、ぎし、とチェーンがしなり、動きの主が、静かに畳に足を着く。
「……びっくりさせてすみません、思うところがあったので」
わたしの顔に、平手打ちでも飛ばしそうな剣呑な目線が投げつけられる。
鹿島さんのこんな顔、初めて見た。
「おめでとう、ですか」
「……うん」
「ならどうして古橋さんは、そんな顔をしてるのですか」
「え?」
意外な質問に、頭が真っ白になる。
口元をあげ、目も細めて、言葉も柔らかくして。
心配させるようなしぐさなんて、ちっともしてないはずなのに。
「合格した晴れの日に見る顔がそれでは、悲しいです」
鹿島さんと視線がかみ合ったとたんに。
「っ」
胃が、見えない火かき棒に突き刺される。
いたい。いたいよ。
指でその部分をかきむしる。
身体の真ん中。
薄い胸のその奥からくる。
痛みが。痛みが引かない。
「薬は、そんなにすぐ、効かないもんね……」
言い訳を呟きながら、その場にうずくまる。
3人が、血相を変えて駆け寄ってくる。
でも、動けなかった。
「かしまさん、ちょうのさん、いのもりさん、だいじょうぶ、だよ」
「古橋さんっ!」
いつも間延びして穏やかな彼女の殺気だった声が、余計に胃を刺激する。
「でも、こんなにいたいんじゃ、旅行は、いけない、かな?」
つっかえる自分の声に、仮面が、壊れていくのを感じる。
痛い。
いたい。
ここは、胃じゃない。
「……わたし、どんな顔、してるの」
「ご覧に、なりますか」
鏡を探そうと首を巡らせ始めた彼女に、申し訳なくて。
「――いい。鹿島さんたちの顔を見てたら、だいたい分かった」
わたしは声だけでその動きを止める。
尋ねる必要なんて、なかった。
分かってる。
分かっているもん。
わかって、るんだよ。
「……っ」
わたしは、弱虫だ。
自分の恋が、たったいま終わったことを受け入れられない、ただの、ただの弱虫だ。
そう認めたら、視界が、あっという間に虹色の水で満たされていく。
もう3人の輪郭はあやふやだ。
でも泣き崩れそうになるのは、懸命にこらえる。
口の端を吊り上げる。
だって、うれしいことなんだから。
友達の恋が叶っただもん、お祝いしてあげなきゃ。
大事な友達なんだから。
応援してたんだから。
そうして、あげなきゃ。
静かなわたしの葛藤に向かって、誰かの、長い、長いため息がつかれた。
「古橋、姫」
膝をつき、鹿島さんがわたしの泣きぼくろを手のひらで包んだ。
これがあるとねぇ、涙を流すことが多くなるよと、おばあちゃんはいつも言っていた。
それでも、なんとなく、きょうの涙は止まった気がする。
「現代は世知辛いですね」
オーロラ姫のように、眠っているところを王子様が起こしに来てくれるどころか、姫の方が冒険しないとハッピーエンドが迎えられない時代です、と。
染み入るような声で、鹿島さんは口にした。
「私たちは大好きな姫に、思いを遂げてほしいのです」