「おもい、を」
なんだろう、思いって。
「だから、諦めないでください。この1年、姫はそうして頑張ってきたのではないですか」
ああ。
わたしの、気持ちのこと?
「あきらめるも何も、はじめから、ないんだよ」
目の前の黒は髪の毛のせいか、瞼を閉じてしまっているせいか。
自分だけの、真っ暗な世界の壁に向かって、わたしの震える声がさまよい出てくる。
「うるかちゃんはね、とっても、とっても素敵なんだ。いつも元気いっぱいで、かっこよくて。気さくで優しくて、すごい選手なのに、お料理も上手で。一途で……とっても純情乙女な子。ただ、勇気がずっとずっと、出なかっただけなんだよ」
「……」
「わたしの好きより、大きくて美しくて、大切な好きを、ずっとずっと持っていたんだ」
初めて、耳で聞いたかもしれない。
初めて、誰かに言ったかもしれない。
――すき、という言葉を。
「だから、だからこれでいいんだよ」
「――姫はお好きだったんですよね、唯我さんのことを」
……こくん!
涙が跳ねるくらい、思い切りうなずく。
ここまできて、何を取り繕う必要があるだろう。
「伝えなくていいのですか。声に出さないと、伝わらない思いもありますよ」
「……できないよ」
もう。
残りの言葉が胸から出ていくのを、止められなかった。
「できないよ。大切な友達が好きな人を、好きになってしまうなんて……許されないんだよ!」
「……」
「あきらめなきゃいけないんだよ。この気持ちを伝えたら、いままでの応援が、嘘になってしまう。大事な友達を裏切って、深く傷つけてしまう。いまさら、いまさら伝えたら、成幸くんだって、困らせてしまう」
「……姫」
「いままでみんなで築いてきた大事なものが、全部、壊れてしまう、だか」「そうでしょうか?」
言い終わらせてはくれなかった。
鹿島さんは、有無を言わさず、わたしの顔を持ち上げた。
「――本当に、そうでしょうか。その理屈では、古橋さんのお相手は、あなたが大切に思えないような、そのぐらいの人が好きになる方か、誰からも好意を向けてもらえない、そんな程度の方からしか、選べなくなりますよね」
「……!」
言葉を詰まらせたわたしに、鹿島さんは畳みかける。
「逆に、早い者勝ちなのでしょうか。周りの気持ちを知らなかったらよかったのでしょうか。相手を陥れるわけでもなく、強引に奪おうとするのでもない。素直な気持ちを伝えることは、誰かを好きになるというのは、そんな、殺伐としたものなのでしょうか」
追いかけるように、名前も忘れていた強引な男子の顔が浮かび、身が震える。
「かしまんの言う通り、姫は応援のふりして、周りの子を陥れようとしていたっスか……違うっスよね?」
蝶野さん。
声のした方に、応じようと向き直ったわたしは。
「そんなに他の人には優しいのに、どうして自分のことをもっと大事にしてあげないんっスか……」
小柄な彼女の、猫のような瞳から。
筋を引いて、涙が流れ落ちるのを見た。
「姫が裏切りに悩むなら、告った人魚姫の方だって、姫の気持ちを知ったら抜け駆けしちゃったと、しこたま悩むんじゃないっスか? いやむしろ悩んでもらわなきゃ不公平っス! それが、それが姫のいう友達ってもんじゃないっスか!?」
「友達、か」
「猪森、さん」
「じゃあさ、もしきょう告白したのが、全く知らない女の子だったら、姫はどうしたんだい?」
反対に、高い背丈から見下ろすように。
カーディガンの裾を合わせた猪森さんは、しゃがんだままのわたしへ、遠慮ない言葉を投げつける。
「それは……」
「それは? それを見た大事な友達が、あたしはもういいんだ、と諦めようとしたら、姫は、彼女になんと言ってあげるんだい?」
思わず、拳を握り締める。
わたしは。
わたし……はっ。
「わたしと一緒に諦めようって?」
「ちがうっ!!」
言い終わりをかき消すように、わたしは叫んだ。
自分でも驚くほど、鋭い声だった。
なのに。
鹿島さん、そして猪森さん、蝶野さんは、してやったりというように、揃って頬を緩めた。
「苛めたみたいでごめん、古橋姫。本音を言えば、姫さえ幸せなら私たちはそれでいいんだい。受験と一緒だよ」
「でも、姫が誰かを泣かせながら幸せな気分になれないことも、同じぐらい、分かってるつもりっス」
「たとえ緒方さんほど思われてはいなくても、私たちは友人として、姫の幸せを願っています」
鹿島さんが進み出た。
「だから、5分だけ、私たちに時間をください。いま姫を、辛い目に合わせたとしても、伝えたいことがあります」
有無を言わさぬ強さ。
教室では見たことがない、覚悟を決めた目だった。
操られるように、わたしは、首を縦に振った。
「――あれは、三者面談が終わった頃でした」
鹿島さんが瞬きを、一度、二度。
何かを欲しがるように、ぎゅっと繰り返す。
応える代わりに、わたしも、目をぎゅっと見開く。
いいよ。大丈夫。言って。
そう訴えて、次の言葉に備える。
「武元さん……唯我さんにキスしていました。海外留学に行っても、自分のことをずっと見ててねと告げる、勢いで」
姫、という声がかかるまで何秒あっただろう。
いっそ、気を失えればよかった。
「私たち、たまたま、目にしてしまって。さすがに姫の前で、口にはできませんでした」
鼓動で呼吸が苦しくなる。
そんなこと、何も知らずわたしは。
誕生日プレゼントに、喜び。
冷凍車の中で、肩を寄せ合い。
涙を流して、胸を痛め。
りっちゃんは、成幸くんへアタックし続けていた。
――なんてこった、だよ。
「水泳部の海原さん、川瀬さんの勝ち誇った顔、今でも思い出します。私たちが姫と唯我さんをくっつけようと、積極的に活動しなくなったのもそのせいです。むしろ姫に二股をかけようとするなら、全力で制裁しなければいけないと、諦めて。だから姫が少しばかり早く気付いたとしても、今と状況は、何も変わらなかったのです」
だけれど、自棄に落ちていきそうな、わたしの両手を。
蝶野さん、猪森さんが、握っていた。
痛みを感じるほど強く。滑ってしまいそうなぐらい汗ばませて。
視線と一緒に、小刻みに震わせていた。
――怖かったのは、わたしだけじゃない。
みんなも、なんだね。
「ですが、それでもなお唯我さんは、武元さんと付き合いませんでした」
鼓動が、一拍消えた。
「誰とも付き合わず、姫たちと一緒に、合格まで走り続けました。そして、今日の告白に至ったんです」
こくはくの四文字に、黄金のシーンが目の前へ蘇る。
それは、運命の人が美しく輝いていた、絶対無敵のマジック・アワー。
「だから、まだ姫は諦めてはいけないんです」
圧倒的な光景に、私の気持ちは、ぐしゃぐしゃに乱れて、
「いのぽーん。唐突だけど、いのぽんが好きな人に告ったとするっス」
そして、蝶野さんの底抜けにとぼけた声に、盛大にすっ転んだ。
「きゅ、きゅ、急にそんな話振らないでくれるかい!」
「いいからいいから答えるっス。そしたら、どっスか? すぐ返事、ほしくないっスか?」
「ほしくないというか、むしろもらえるまで、その場を動けなくならないかい?」
「次、かしまーん、もしかしまんが唯我君に告られたら、どうするっス?」
「その場でOKしますね~。そのあと、姫になんて言おうか、徹夜で悩むと思います」
「ええっ!? か、かかか鹿島さん??」
「あ、唯我さんは例ですよ。姫の想い人を奪おうなんて思っていませんから~。あ、もし万一そんなことになったら、ものすごく驚いて、理由を糺してしまうと思いますが」
「以上……姫、これで分からないっスか?」
視界が、ただ上下する。
まるで、知らない外国語で話しかけられたようだった。
「それでは、お教えしましょう」
「辛くても、もう一度思い出すんだい。姫、姫の思う彼は――告白へ返事をしたかい?」
身体は、動かなかった。
代わりに眼を、瞬きもできないぐらいに開いた。
確かに、うるかちゃんは言った。
へんじは、いらないから、と。
「だから、まだ、まだ何も終わってはいないってことっス!!」
他のふたりと、いくつものアイコンタクトを交わして。
鹿島さんは、じれるほどゆっくりと、口を開いた。
「私は、思います。武元さんは、答えを聞く自信がなかった。そして唯我さんも、即答ができなかった。そうなる、理由があったのだと」
「……ぇ」
言葉は、耳に入っていた。
だけど、思考はついてこなかった。
「お二人は、唯我さんが他の誰かを好きなのだと、互いに悟っていたのではないでしょうか。それなら、あんな中途半端な形になったことにも、納得がいくのです」
「……!」
「見る限り、唯我君の傍によくいた異性は、人魚姫、親指姫、そして古橋姫。他に目で追っているような女子はいなかったっス」
無理して、なんとか追い付こうとする。
成幸くんの、女性関係。
いまあげた中に強いて加えるなら、小美浪先輩、桐須先生、それに妹さんだろう。
「だからいま、唯我さんの心の中には――姫、もしかしてあなたがいるかもしれないんですよ」
「……わたし、が?」
言ってから頭を振り、耳から忍び込んできた妙なものを、必死に追い出す。
ありえない。
そんな都合のいい話なんて、あるわけがない。
知り合ってからずっと、5年間ずっと、成幸くんが好きだと言い続けていたうるかちゃん。
うるかちゃんに、そんな心の余裕なんてあるものか。
でも、みんなの言葉に言い返すこともできない。
どうして。
どうしてふたりは、その場で気持ちを確かめ合わなかったんだろう。
「唯我さんは、あの時のキスを気兼ねして、自分から言い出せないのかもしれませんね。武元さんへの、ごめんなさいを。もし姫が気持ちを伝えたなら、あの出来事ごと、唯我さんを受け止めることができるのなら、その苦しみから救ってあげられるかもしれません」
「……ぁ」
「残念ながら、いい想像ばかりではないです。姫には酷ですが……告白のお返事をする前に、自分の中の好きへ、きちんとけじめをつけなければならないと思っているかも」
女の子への、けじめ。
みんなに優しくて、朴念仁な成幸くんには、ぜんぜん似合わないけど。
わざわざ特別VIP推薦を断って、受験に挑んだ成幸くんだ。
もしそうなら、するだろう。
この先の将来、うるかちゃんだけを、ずっと好きでい続けるために。
「ただ、どちらにせよ、姫が気持ちを伝えることは、誰にとってもよいことなんです。もし姫が、けじめをつけるべき相手ならば、結果として武元さんの恋の成就を応援することになり」
両方の手の感触が消えて、気がつけば。
鹿島さん、蝶野さん、猪森さんは、もう一度穏やかな微笑みをわたしに向けていた。
「意中の人であれば、唯我さん、そして武元さんの止まってしまった時間を、前に進めてあげることになるのですから」
先に立ち上がった鹿島さんは、わたしに向けて、左手を差し出す。
「必要なのは、どんな真実でも受け止める勇気です。待つのは天国か地獄か。姫、姫は真実への扉を開ける勇気がありますか?」
その言葉に、今度こそわたしは、泣き崩れた。
声をあげて、泣いた。
ここまでされたら、消さなきゃいけない思いを、抑えきれない。
最近のわたしは、ずっと変だった。
朝起きて、成幸くんのことを考えて。
ごはんを食べながら、成幸くんのことを考えて。
笑いながら、成幸くんのことを考えて
眠る時も、夢の中まで、成幸くんのことを考えて。
好き。
成幸くんが好きだ。
――すき。
わたしの頭の中を、その二文字が埋め尽くしていた。
「いい……の……?」
その思いを、成幸くんに伝えることが、成幸くんの助けになるかも知れないなんて。
「わた……しの、すき、は……許されて、いいのっ?」
鹿島さんは、言わなかったけど。
成幸くんの思う相手が、わたしたちのどちらでもなかったなら。
その時は確かめよう。誰が好きなのか。
そして女心の師匠として、伝えてあげよう。成幸くんの進むべき道を。
――りっちゃん。
大好きな親友を応援しながら、うるかちゃんの宙に浮いた気持ちに、区切りをつけてあげられる。
こんな甘い希望が、この世にあって、いいんだろうか。
「じゃあ少しだけ、姫の挑戦をお手伝いするっス」
ガラガラ音を立てて、道場の横、鉄の扉が開かれた。
その先は雑草がまばらに生える、土の一面。
ただの外だった。
「この道場の門下生が、必勝を期す時一度だけ使える扉っす。ここから出陣した拳士は、挑んだ試合に、絶対負けなかったらしいっス」
「そうなんだ」
感心しながら、ふと湧いた違和感が口をつく。
「蝶野さん、なんで違う道場のお話、知ってるの?」
「き、気づくの早いっス!?」
「ま、まぁ――ちょっとした験担ぎ、ジンクス、だと思ってくれればいいんだい」
猪森さんの言葉に、ようやく思考が追いつき。
わたしの毒舌が、鎌首をもたげる。
「もしかしてそれって……なんの根拠もない、たった今思い付いた口から出まかせかな?」
「「うっ!」」
「久しぶりに聞きましたね、姫の毒舌。そこもまた、愛すべき魅力でした~」
もう。
まったくもう、だよ。
わたしを陥れるための、なんて……なんて優しい嘘なんだろう。
そんな優しい世界が、ここにあるなら。
信じて、いいのかな。
唐突に頭をよぎった懐かしい言葉に、思わずわたしは尋ね返す。
信じて、いいですか。
親からも、先生からも見捨てられても歩こうとした道が、今に繋がったように。
また、そんな夢みたいなことがあるかもって、信じてもいいですか?
「……うん、やるよ」
小さすぎる声は、3人には届かない。
「わたし、やってみるっ!」
聞こえた。
「じゃあ、出陣っスね」
畳の上に、わたしの靴が置かれた。
土足は気になるけど、即席のジンクスは続けよう、ということか。
歩み寄り、靴に足を戻しながら、改めて、四角く切り取られた向こう側の世界を眺める。
藍色に染まった青空に、針穴のような細さで、宇宙からの光が漏れている。
太陽の前にかき消されてしまう、小さな小さな光。
「……きれい」
昼も夜も、絶え間なく走り続け、遠い世界からやってきた、光。
開け放たれた外に広がっているのは。
わたしの味方、星の世界だった。
「最後に聞いておくっス。1歩踏みだした姫はまず、何をするっスか?」
「そうだね、わたしは……」
息を吸い込み。
淡い胸を精いっぱい張って、言葉にする。
耳に残るあの告白に、負けないように。
「成幸くんに、会いたい。だからすぐ電話します。卒業旅行前に、持ってないスノーウェアを買わなきゃいけないから、それを理由に、デートに誘います!」
「ここからうっすら、姫の電話を聞いちゃうかもしれないけど、大丈夫かい」
「うん、後ろから、応援してほしいんだよ!」
成幸くんに会いたい。
会って、話がしたい。
成幸くんの気持ちを、確かめるために。
わたしの好きを確かめるために。
成幸くんに、会いたい。
袖で涙をぬぐって、みんなの顔を目に焼きつけ、大きく手を振る。
「じゃあみんな、行ってくるね!」
この部屋の香りを、涙の味を、ずっと忘れることはないだろう。
い草で出来た草原を蹴りだして、わたしは旅立つ。
すぐに地面から跳ね返る、新しい世界の土の感触。
背中に視線を受けながら、液晶画面に指を伸ばし、驚くほど落ち着いてその名前を呼び出す。
コール音、そして。
「――もしもし成幸くん。いま、だいじょうぶ?」
さぁ、行こう。
そこに行けば、どんな君の答えも、きっと笑顔で受け取れる。
そんな。
わたしの願いの、叶う場所へ。