SSの本棚

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正映鏡(マリア様がみてる・瞳子SS)

※過去の自作の再掲
※要:『妹オーディション』読了


《正映鏡》


 寝不足気味の頭を振って、私は今日も、鏡の前に立つ。
 寝乱れたままの髪の毛に右手を当てると、『鏡』の中の私はいつも通り、向かって左側の手……『右手』を上げた。
 ぼうっとしていた頭が、見慣れているその光景に一瞬ぎょっとなる。
 その情けない顔も『鏡』は何も言わずに映し出す。その光景が、私にふと、学園祭前のことを思い出させた――。


「……何でこんなに大勢でくるんですか」
「えー、だって瞳子ちゃんが『面白いものを見せますから来てください』って言ったんじゃない」
「それはそうですけれど…」
 ある日の放課後。私は祐巳さま――結果的には、祥子さまを除く山百合会フルメンバーを、演劇部の道具置き場に呼んでいた。
「それより何、面白いものって」
祐巳さんだけにしか見せられないようなものなら、私も乃梨子も戻るけど……」
「焦らなくても、逃げるもんじゃありませんし、誰にでも見せられるものです――これですわ」
 言いながら私は大道具のひとつに近づき、かかっていた覆いを一息に外した。
 そこから現れたのは……一枚の全身鏡。
「この、鏡?」
 半分は声、半分は視線で。半信半疑を主張しながら6人が「面白いもの」の正体を見ている。
「そうですわ」
「どこにでもある普通の鏡じゃない」
 と、『鏡』に手を伸ばした由乃さまが、次の瞬間面白いほど顔を引きつらせて凍った。
「れ、れれれれれ令ちゃんこの鏡のろわれ……」
 それは驚くだろう。右手を伸ばしたら、鏡の中の自分も右手を出してくれば。白薔薇姉妹も恐る恐る手を出しては、やはり起こるおかしな現象に驚いている。
「ただの鏡じゃないのね」
「ええ、『正映鏡』というのですわ。正しく映る鏡と書いて」
 令さまの問いかけに、私は得意げに鼻を鳴らす。
「簡単に言えば、他人が見ている『本当の自分』を見られる鏡、なんです」
「……瞳子、どういう原理なの、これ?」
 一番早く立ち直った乃梨子さんが、興味深そうに鏡へ近づく。私はキャスターのついた鏡自体をくるりと回して、それに応えた。
「鏡二枚を直角に当てて透明ガラスをはめ込んで、こんな風に三角形を作るんです。そして中に水を入れる……そうしてつなぎ目を消すのがポイントなんだそうで」
 二つの鏡に跳ね返った像が、こうして、「正しい向きに」映し出される。ただ、これだけ大きいものは珍しいんですよ、と最後に私は付け加えた。
「原理は分かったけれど、こんなのいったい何に使うのよ?」
 醜態を見せたと思ったのだろうか、由乃さまがいつも以上に険悪な声で突っかかってきた。よほど恥ずかしかったに違いない。
「演劇は、常に他人の目を意識しなければいけませんから」
 だけれどそれを斟酌しないで私も、あっさり答えを切り返す。
「動きが観客にどのように映っているか、表情はどう見えているか、それをチェックするために必要なんです。後はスポーツ選手がフォームを確認するときなどに……って祐巳さま!?」
 そうだった、他の人に気をとられ、一番見せたかった人が視界から消えていた。
 いつの間にここまで来ていたのだろう祐巳さまは、鏡の隣で説明していた私の首に腕を掛けると、無理やり正面に連れ出した。
「ちょ、ちょっといきなり何するんですか!」
「すごいよ、こんな面白いもの、どうしてもっと早く教えてくれなかったの?」
「た、たまたま思い出しただけで別に…」
「だってすごいよ、鏡にもここにも、いつもとまったくおんなじ瞳子ちゃんがいるんだもん」
「普通の鏡だってそれは変わらないでしょう?」
「違うよ、さっき瞳子ちゃんが自分で言ったじゃない。この鏡は『本当の姿』を映し出してくれるって」
「自分で自分の姿を見た時の話です、それは」
「なら……いつも瞳子ちゃんの瞳には、私が、こんな風に映ってるんだね」
 はしゃいでいた祐巳さまの視線が、その瞬間、艶のあるうっとりとしたものに変わった。
 私は、背中にいながら正面に立つ『いつもの祐巳さま』と目を合わせてしまう。
(……どうして私は、祐巳さまにこれを見せようと思ったんだっけ)
 物思いにふける暇を与えず、鏡はどこまでも正直に、真っ赤になっていく私の顔を映していた――。


 制服を身につけ、もう一度私は、自分の持つ正映鏡の前に立った。
 鏡に映る、「他人から見た」自分。
 ひねくれて、この髪のように気持ちが渦を巻いて、いつまでも素直になれない私……。
 だめ……今はまだ、言えない。こんな自分のまま、オーディションになんか出られない。周りにどんなに言われても、乃梨子さんにお節介されようとも……。
 でも、もしも何かあったら。自分が自分の行動を許せる、そんな日がきたら。そのときは、きっと……。

 だから神様、もう少しだけ…………。

〔x〕なき夜に姫は眠る(ぼくたちは勉強ができない・文乃SS)

虫の音が、りりりと鳴って。
窓はしまってるのに、鼻の奥に、外のキンモクセイの香りがする。
腰を下ろしたラグの上から俺は、ベッドの上で、あどけない顔をして眠る文乃を眺める。
ずっと繋ぎっぱなしで、しっとりとした手を組み替えようとして。
幸せなそうな寝顔を崩したくないから、やはり止める。
思わずつつきたくなる、柔らかそうな頬も、眺めるだけにして。
眠る前に交わした約束、その言葉をひとり、思い出す。



「眠るまで、手をつないでいてほしいの」



――お父さん、今日は学会で帰らないから。
あの時みたいに、握っていてほしい。
ふたりで過ごした帰り際、服の裾をつままれ、突然、文乃から消え入りそうな声でそんなことを言われた。
流されるまま彼女の入浴と、着替えを待ち、夜に立ち入った彼女の部屋。
文乃は言葉もほとんど交わさず、電気を消し、ベッドに潜り込む。
「……あまり元気なかったのは、今日からその、あの、そういう日だから」
「あ……大丈夫、水希いるし、俺も最低限は、うん、分かるよ」
照明が消え、カーテン越しの光に、青みがかったモノトーンになった部屋。
見覚えのあるもの、まだないもの。いろんな文乃のものを見渡しているうちに、また、微かな声が漏れる。
「……ごめんね彼女なのに。いろいろ、考えさせちゃった?」
「ううん、大丈夫。安心して休んで」
それでも、文乃の顔は冴えない。
空気を変えたくて、俺は腰を浮かせ、立ち上がる。
「窓開けてもいい? ここから星、見えるかな」
「……いい」
固まった声が届く。
振り返った先で、上半身だけを起こし、口元まで布団を寄せて、一枚の絵画のような文乃が、俺を見ている。
「きょうは、いい」
「そっか」
そのままベッドのふち、足先の方へ座る。
言われた約束を果たすため、どちらの手を取ったらいいかなと考えつつも。
俺は、実際に自分の腕を伸ばすのを、ためらってしまう。
代わりに、この部屋、秒針の音がしないんだなと場違いなことを考えて、なんとなく、文乃の声を待つ。
「……今度ね、大学祭で、プラネタリウムをやるんだ」
見つめるだけの沈黙に耐えられなかったように、文乃がまた、口を開いてくれる。
「そうなんだ」
「一年生みんなでね、台本作って、読むの」
「今の星空? ペガスス座とか、フォーマルハウトとか?」
無言で首を振る。
「それもあるんだけど。聞いてくれる?」
短く息を吸い。
俺の視線と呼吸も、吸い込んで。
それきり、文乃の声が、舞台の上にあがる。



――夏や冬の夜空に比べて、秋の星空は一等星が少なく、淋しく感じるかもしれません。
その中でもひときわ目立つ、ペガスス座の四辺形。そしてそこから、南に伸ばした先、みなみのうお座の口に輝く、一等星のフォーマルハウトは大変有名です。
ではきょうの私たちは、さらに南、ずっと南に降りていきましょう。なんだか、温かくなってきました。
……さあ、ここはシドニー、オペラハウスの前です。

俺の目にひとりの顔が映し出される。
そして文乃の様子の原因を、勝手だけど、想像する。

――見たことのない夜空が写っています。見慣れた星座は形が逆さま。低く地を這うはずのさそり座は天頂付近に輝き、天の川はまるで雲のように濃密に輝きます。

この夜空を、きっと毎晩、見上げるひと。
武元うるか。
そう、なんだろうか。

――南半球の夜空は特徴的ですが、南十字星、サザンクロスを抜きには始められません。北極星のような南を示す星がない南の空、船乗りたちはこの星座を頼りに、未知の海へとこぎ出しました。
でも、ご用心。南十字には、偽物がいるのです。

そこで文乃は解説を切り。
困り笑いのような顔を、作って。
指先を、平らな部屋の空に向けた。

――にせ十字は、昔存在した、空を行く船の星座・アルゴ座の船の部品、ほ座とりゅうこつ座の星を結んで現れます。揃った二等星の明るさで、本物よりも大きく、先に夜空に現れます。
初めて見る皆さんは歓声をあげますが、2つの一等星が輝く本物は、その後にやってくるのです。慌てん坊の船乗りは、この輝きを見ないまま、暗い夜の海でさ迷ってしまったかもしれません。

「自分が、にせ十字かもしれないってこと」
たまらず俺は、さえぎるように言葉を挟む。
「違うのっ、謝るのは、うるかちゃんの方なのっ」
今度こそ意味が分からない文乃の台詞は、すぐに涙声に溶けて。
それきり、しゃっくりあげる彼女の背を、俺はただ、撫で続けるしかできなかった……。

それからどれだけ時間が経っただろう。
遠慮がちに俺が座ったベッドサイド。
彼女の右手を、今さらのように左手で押さえて。
さっきよりは近づいた俺たちふたりの間に、諦めたように、文乃が言葉を置き始める。
「……わたし、成幸くんの彼女でいられて、毎日幸せで。やりたいことは、どんどん叶っていって。彼女らしいわがままなんて思いつかなくて。だから、時々たまらなく不安になる。彼女として、幸せすぎることが」
跳ね上がった心臓の音が、部屋の空気を震わしたようで、怖くなる。
まるで、自分の胸の中の日記帳を、文乃に読み上げられたような気がしたから。
見ているだけで胸が潰されそうな、不思議な笑みを浮かべて、文乃が、話しかけてくる。
「――そんなとき、この台本がきて。練習してから、夢を見るの。うるかちゃんの、夢」
「うん」
「先に空に上がってきて、成幸を惑わしちゃってごめんね。これからは彼女の文乃っちが、正しい方へ導いてねって。謝るの。わたし行ったことないのに、夜の、オペラハウスの前で。笑顔で」
掛け布団のすそが引かれて。
ことばの調子が、強くなる。
「こんなに時間がたったのに。うるかちゃんの思いも知っているのに、夢の中まで都合よく謝らせて、自分の気持ちを守ろうなんて。なんてわたし、嫌な女なんだろうって」
ぽろぽろ。
ぽろぽろ。
掛け布団の上に、音を立てて雫が落ちる。
「こんな彼女、成幸くん、嫌いになるよねって思う。そんなこと、考えただけでもこわい。でも自分でどうしたらいいかわからなくて。助けてほしくて。わたし、おかしくなっちゃいそうで」
――ああ、文乃。
口を開くのが、怖い。
だけど、俺もただ正直な思いを伝えたくて、話し出す。
「解説を聞いて、俺もすぐ思い浮かんだよ。文乃はすごく嫌だと思うけど」
びくん。
俺が座るところまで、震えが伝わる。
「俺たちがうるかのこと引きずるのは、仕方ないんだと思う」
うるかだから。
悔しさも、腹立たしさも、笑い飛ばしながらあけすけに言ってくれる、うるかだったから。
夢に向かって旅立とうとするその時に、ふたりがかりで『ごめんね』を告げて、俺たちは結ばれた。
「でも」
……こつん。
額を合わせて、俺は告げる。
「それなら、一緒に引きずるよ。いつまでも」
視界いっぱいの文乃から、驚きが伝わってくる。
「すり減って、すり切れて、それがなくなってしまうまで」
そこまで言って俺は彼女を抱き寄せ、頬を寄せる。
「離さない。俺は文乃に恋してる。いまも、これからもずっと」
そしてもう一度、お互いの姿が見つけられるように、身を離して。
あの星空の下の約束の通り。
その肩が震えないよう、優しく、でもしっかりと支える。
「文乃は、優しい。それは、俺がとっても好きなところだよ。でも、俺たちこれまでは『いい子』でいようとしたんだ。もう少し、ずるいやつらになろうよ」
「……っ……」
「とことんまで引きずりながら、でも、ずっとふたりでいようよ」
「……っ……なりゆきくん……!」
勢いよく流れてきた髪が、俺の目の前をさえぎる。
花園で目を閉じたように、文乃の香りでいっぱいになる。
今度は俺が、愛してる文乃の腕の中に包まれ、頬に熱を感じる。
「めんどくさい彼女でごめんね。甘えてばかりで、ごめんねっ……」
「……ふふふ。不安でも心配でも、俺の『彼女』だってとこは、ぜったい譲らないんだね、文乃?」
「え」
「いま自分のこと、たくさん『彼女』って言ってたからさ」
「あ……」
「嬉しいよ」
俺の忍び笑いに身を飛び退かせ、華奢な指をいっぱいに開いて、文乃が口を隠す。
「……いま、何か、言いかけた?」
「……うん。いまの成幸くん、なんかちょっとりっちゃんみたいだったなって」
そのことばに、記憶から緒方の顔が飛び出し、俺は少し慌ててしまう。
それが見えたのか。
器用に。
くすくす笑って、文乃が、俺の動揺に応える。
「わたし、わかっちゃった。だからもう、だいじょうぶだから」
ささやかに反らせた胸から、自信に満ちた、彼女の声が紡がれてくる。
「だってわたしは、唯我成幸くんの最初で最後の彼女、古橋文乃なんだもん」
文乃が俺の掌を握る。
「そう成幸くんが、保証してくれてるから」
これまでなかった強さで、痛いぐらいに、ぎゅっと。
「だから覚悟してね成幸くん。わたし、決めちゃったよ。この手は、何があっても離させないよ」
俺も、その手を包み返す。
「うん、だいじょうぶ。文乃は怒ると怖いから」
「もう」
繋いでいた手がもう離れ、俺の鼻の先を遊ぶようにつつく。
知ってるよ、文乃。
俺たちが繋いだ手は、目には見えない。
誰も触ることなんて、できないよね。
「――窓、開けようか」
少しの見つめ合いのあとで、俺は窓に向かって体をよじる。
夜の風がまだ、あの秋の香りを運んでくれるはずだと思って。
けど、文乃は静かに首を振る。
「きょうはいいの。星より大好きな成幸くんの顔を見ていたいの」
浮かしかけた腰をまた下ろし、俺は大好きな彼女の髪を指でとかす。
この思いが、言葉にできなくて。
指先からそれが、少しでも伝わればといいなと願って。
「――きょうは、幸せなきもちで眠れそう」
改めて彼女が、身を横たえる。
自然と俺は、ベッド下のラグに身を移し、彼女の利き手をとる。
「おやすみ、文乃」
幸せな眠りが訪れるように。
俺はそのおでこにひとつだけ、唇に乗せた思いをのせる。
それで、満足したように。
眠り姫が、瞳を閉じる。
「……おやすみなさい、成幸くん」





「……くん」
見つめ続けていた、満面の笑みの口元が緩み、しばらくぶりに、愛しい彼女の声がする。


「……なりゆきくん、おかわり……」


――これを聞いて、静かにしたままでいろって?
いじめのような文乃の一言に、笑うのを必死にこらえ、俺はその顔を優しくにらむ。
「待ってて、文乃」
まずは言いつけ通り、額にもういちど唇を落とし。
眠りに落ちるには不自然な服と体勢だけど、彼女が待つ世界へ、俺も意識を向けていく。

明日は、誕生日のプレゼントを買いにいこう。

それだけを思い出しながら、俺も、いつしか心地よい眠りに誘われていった。


[x]なき夜に姫は眠る
fin

観客席の特権(マリア様がみてる・志摩子×蔦子SS)

※過去の自作の再掲
※要:『レイニーブルー』の読了




 梅雨明けがTVで宣告された日の、晴れ上がった朝早く。
 私は中庭でようやく一人になった標的へ、ごきげんようの挨拶もなしに低い声を飛ばした。
「……しゃべったわね、志摩子さん」
「あら、何のことかしら」
 白薔薇さまこと志摩子さんは、季節を問わない心地よい笑顔で、しれっと答えてくれた。
 制服を着たマリア様という通り名は、最近より実感をもって当てはまっている気がする。
 なにせ顔を見た途端、呼吸のリズムが狂いだす。意識してしないと息が止まって苦しくなってしまうのだから。
 しかしそれで矛先を鈍らされている暇はない。こっちは苦言を呈しに来たのだ。
「私が撮られるの苦手って秘密。どう説明したのか知らないけど、祐巳さん血相変えてきて大変だったんだから」
 そっちの世界は見ているだけがいいなんて、蔦子さんも失うより身軽でいたいって思っているの。
 前の志摩子さんみたいにいなくなっちゃうつもりなの。
 嫌だよ絶対、どこにも行かないって今ここで約束して。絶対一緒に卒業するんだから!
 回りも後先も考えずに飛び込んできて、しっかり捕まえてくれて。一年生の終わりに同じことをされた志摩子さんの困惑と喜びが、本当によく分かった出来事だった。
 私の写真に写りたくない理由は、けれど、そうじゃない。
 確かに、過去という何かに縛られたくないという思いもあるが、私のその感情はある種の哲学に裏打ちされているものだった。

 人は写真に写ることで、そこに自分があったことを信じる。
 対して私は、写真に映らないことで、写真を撮る変わりなき自分を信じたのだ。
 写ってしまえば、過去の瞬間の自分に会ってしまうから。自分でない自分と、対峙してしまうから。
 それは自分だけはいつまでも変わらないでいられるはず、という怯えにも似た願望だった。
 舞台の上の人のように、踊り、悲しみ、傷付きたくないという気持ち。
 観客席の特権を決め込むことが、いつしか最高の幸せだと思っていた。

祐巳さんは私にとっても、蔦子さんにとっても大事なお友達でしょう?」
 私の思考の葛藤を知ってか知らずか、志摩子さんはさっきよりもより暖かに微笑んでみせた。
 今の彼女にフランス人形という表現は当てはまるようで当てはまらない。
 磁器のような整った美しさがいい意味で薄れ、艶と温みが出たような、そんな感じだ。
 普通の人が「妹を持って変わったね」で片付けてしまうその変化は、長く見続けている私に戸惑いを覚えさせ、不安に陥れる。
「口止めもされてなかったし、いいかなと思って」
「よくない」
 抗議の意味をこめ、カメラを向けて無意味に私はシャッターを切った。
 小悪魔な藤堂志摩子。ちゃんと撮れていたら白薔薇さまファンにはさぞショックの大きい一枚だろうなと思いつつも、この適当なシャッターではそれも叶うまい。
「アレは唯一にして最大の弱点なんだから」
 声の調子を緩めず、私は突っかかる。
 何で、自分はこんなにも怒っているのだろう。
 志摩子さんの言うとおり、祐巳さんが大事な友達であることは間違いなく、自分の弱点の一つくらい言ったって構わないはずだった。
 でも、あの秘密は志摩子さんだけしか聞かせたくなかった。
 祐巳さんが私を問い詰めてきた瞬間。
 そのときから、志摩子さんへ、憎しみに似た思いだけが膨らんでいった。


 そう、あの日、自分が陥落したから。
 好きな人の、痛ましい顔に耐え切れず踏み込んでしまったから。
 恋心を潰してしまったから。


 あの被写体、この被写体に次々と心を寄せては忘れていく自分があそこまで執着したのは、祐巳さん以来だったのではないか。
 祐巳さんをなぞるように、結果的に姉妹を作る手助けをしてしまって、想いは終わったはずなのに。
 ロザリオの関係ができてしまった今の志摩子さんにも、自分は、惹かれていると言うのだろうか。
「そんなこと言ったって私のお姉さまは」
「軽いノリの人気者、佐藤聖さまでした」
「そうよ」
 ……いや、今のほうが。
 ずっと、魅力的だ……。
 風もないのに、ファインダーの向こうの彼女の髪は羽根のように柔らかく見える。梅雨の重みのない、朝の涼しい空気の中だから、なおさら。
 と、動かしていないはずのカメラの視界の中で被写体がズームになっていった。
「怒らせちゃってごめんなさい。蔦子さんだって素敵な被写体なのに、って思ったからつい」
 温かくて湿った固まりが、ぺとりとつく。
 一瞬遅れて感じた、自分と違う髪質の感触と甘い空気を理解した瞬間、私の鼓動が四倍速で加速した。
「ど、どどどどどど」
 祐巳さんのような無邪気な笑顔は、いまや彼女のお姉さまだった聖さまの持つ、嗜虐交じりの物に姿を変えていた。
「これが私のシャッター音。何回でも撮り続けちゃうんだから」
 二回、三回と彼女は何のためらいもなく私の頬にキスの雨を降らせる。
 あの聖母さまが、私に、こんなことをしてくるなんて、信じられない。
 熱病に浮かされるような幸福感に包まれながら、ふと聖女のイメージを壊すような軽薄さに我慢ならなくなって、私はカメラを離し志摩子さんのおとがいを押さえて睨みつけた。
「ピントがあってないわよ、白薔薇さま
 自分の人差し指を、それとなく唇に向ける。
 浅い好意なら、ここまではっきりと迫られたら引いてしまうはずだ。
 一瞬だけ、白薔薇さまはあっけに取られた表情を見せた。
 ――撮らなかったことをこの先一生後悔しそうな、夢にまで見そうな表情だった。
 その感情が押し寄せるより先に、志摩子さんはくすくす笑って、私の両肩に手をおいた。
「さすがカメラマンね」
 ほとんど力がこもっていなかったのに、その手が動くと導かれるように身体が志摩子さんに正対した。
 それでも物足りないのか、志摩子さんは顔を近づけ、どんどん間に流れる空気を甘く発酵させていく。
 ああ、もう、敵わない。完全に見透かされて遊ばれている。今の志摩子さんは、もう完全な学園のトップ、白薔薇さまだ。
「あ、当たり前でしょ。私を誰だと思っているの」
 観念しきりながら、最後に私は精一杯の虚勢を張った。
 絶対、自分からは言わない。自分から言ってしまうなんて、完全敗北を認めたみたいで癪だもの。
「私が大好きな、」
 肩に乗せていた手を首に回して、顔全体が見えなくなるほど近づけながら、志摩子さんは蜜の声で囁いた。
「そして私を大好きな同級生、武嶋蔦子さんです」
 私が聞き終わると同時に、想い人は唇で私を絡めとった。

ONEから来た手紙(マリア様がみてる・志摩子SS)


 それは教室の暖房から埃が払われて、まもなくのことだった。


「それで乃梨子ったら『せっかくだから浴衣姿のままの志摩子さんと歩きたかったなぁ。あ、薄すぎて寒いかな? でもそしたら私があっためてあげるから』って。混んでるところで堂々と言うんだから、もう恥ずかしくて」
「わ、大胆。……あ、もうすぐお昼時間も終わりですね」
「早いですね」
 その声で、各々が席を立ち、自ら昼休みの終わりを告げる。
 寄せ合っていた机を元に戻し、借りていた席を持ち主に返して。
「でも驚きましたわ。白薔薇のつぼみは、志摩子さんといる時はそんなにくだけているんですね」
乃梨子、意外に恥ずかしがりやだから」
 私も冗談を口に含んで借りていた席を離れる。
「またまたご冗談を」
志摩子さんも妹にはぞっこんなのね」
 私を含め、クラスメイト全員が妹のいる二年藤組。何か話を始めるとすぐ妹のことになってしまうのは、ある意味仕方ないことだ。特にそれが、一大イベントの学園祭の後ともなれば。
 乃梨子の話をするのは、好きだ。
 誰かに聞かれてするのも、自分から話すのも、そのたびに頬が緩んで胸が高鳴るのを感じる。妹の話をしている時の志摩子さんが一番幸せそうと言ったのは、祐巳さんでも由乃さんでもなく、同じ藤組のクラスメイトだった。
 姉妹(スール)の話が心地よくなったのは、みんなより間違いなく遅い。一年生の頃は、三年生の白薔薇さまから二年生の紅薔薇のつぼみから妹を申し込まれた生徒として、分不相応な尊敬を受けていた。
 お姉さまと姉妹の契りを交わした後も、無言の繋がりを説明できないから疎ましかった。何より、自分自身に、距離を置いておきたい事情があった。
 それが銀杏の中の桜から、変わった。お姉さまと出会った特別の場所から、変わった。
 乃梨子が来てくれたから。乃梨子に出会って、自分を縛りつけていた重い鎖を解くことが出来たから。
 だから私は今日も学園にいられる。クラスメイトが同じ目線で笑ってくれ、それに心地よくこたえることができる。

 幸せだった。
 ずっと幸せだった。

 使いなれた弁当箱を机に置き、私は脇に下げた鞄を開く。次の科目は数学だから移動しなくても良いけれど……。
志摩子さん、このお弁当包みは志摩子さんのじゃありませんか?」
 声のする方で、うぐいす色の包みが左右に触れている。
「あ、そうだわ。ありがとう」
 照れくささで、頬を軽くこすりながら私は立ち上がる。きっと、白薔薇さまも妹の話に気を取られて、なんて皆が思っているだろう。
 まったくその通りだったから、嬉しかった。

 ――そう、私が机から目を離したのは、このほんの僅かの間だった。

 手渡された包みを持って、席に戻ろうとした私の目は。
 自分の机の上に現われた、一片の、真っ白い封筒に釘付けになった。
 弁当箱と教科書の乗るこげ茶色の天板の上で、強烈な違和感を訴え続ける白さ。一枚のよく出来た絵画に、ちらしの切抜きをコラージュしたようなほど、本来文房具であるはずのそれは、周囲との調和を欠いていた。
 あれは私の持ち物じゃない。さっきまではなかった。
 椅子の前まで戻った私は、立ったまま弁当箱を包んで鞄にしまった。不在だった机の持ち主が席に戻ったことで、封筒の差出人が、意図を伝えてくれることを期待しながら。
 待つ、見る、待つ……けれど、無言。
 望みが叶わないと悟った私は、広くなった机上からそっと封筒を取り上げた。紙の感触と重さが伝わってきた途端、理由もわからないまま安心してしまう。
 どこにでもある封筒に、どうしてここまで心を乱されているのか、その時の私にはまだ分からなかった。
 目までの距離が近づくと、改めてその白さが目に付いた。一言で言って、紙らしくない。見ているだけで意識が他の世界に引き込まれ、遠のいてしまいそうになる白だった。
 奇妙な作りの封筒だった。普通封筒の裏は、真ん中か対角線に沿って、紙を張り合わせた跡があるはず。けれどもこの封筒はどの部分を接いでいるのか分からないように作られていた。封がされた形跡もなかった。
 でも私には、なぜかこれが封筒だと分かっていたのだ。ただの白い紙ではなく、中身があるのだと。
 指をすり合わせると長方形の長辺が開いた。封筒とほぼ同じサイズに切られた、同じ色の紙。かろうじて見える折り目をつまんで引き出す。
 誰も話し掛けてこなかった。クラスの中ごろの席で、休み時間の終わり、ひとり立って奇妙な手紙を開いている私に、誰も話し掛けてこなかった。
 私は手紙を両手で開いた。








このままで、いいの?








 ノートより小さい白い手紙。それが私の世界の全てだった。
 おそらく鉛筆で書かれた薄墨色の筆跡が、距離感をつかめさせぬまま私の前に立っている。
 私は柔らかなその文字に問い掛けた。
 何がこのままでいいの、と。
 尋ねている相手は私なの、と。
 あなたは誰なの、と。
 どの質問にも答えは返らない。文字は再び繰り返す。「このままで、いいの?」と。
志摩子さん、志摩子さん」
 後ろから呼ばれた声で私の五感は教室に戻った。耳には始業の鐘の音が聞こえ、口にはお茶の微かな渋みが感じられ、鼻は教室がいつもと変わらず異常がないことを知らせてくれる。
 そして、手は。唐突な手紙の感触を伝え続け、目は、教室の床とクラスメイトの間に白い手紙を見せてくれる。
 心臓が早鐘を打っていた。
 いたずらにしては、内容があまりにも抽象的。
 嫌がらせにしては、文句があまりにも優しい。
 本当の質問にしたって、意図が不明瞭だ。
 このままで、いいの?
 挨拶をした。先生が終わったばかりの学園祭の話をしている。黒板に三角形が書かれた。どれもが私の心を捉えることが出来ない。
 意味がわからないと、忘れてしまえばいいのに。
 このままで、いいの。
 たった一枚の手紙が、ありふれた日常をかき乱している。
 このままでいいの。
 手紙は何を訴えようとしているのだろう。
 何が、変わらなければいけないのだろう。
 ――結局数学の時間は、黒板を写したノートだけが残った。



 次の時間も、放課後も、考え続けた。
 問われたのは、学園内のことだろうか。
ごきげんよう、また明日」
 いや、山百合会の範囲では、手抜かりがあるわけではない。私が未熟な分は、祥子さまと令さまが完全に補っている。もちろん祐巳さんと由乃さん、乃梨子もだ。
 なら、環境整備委員会の方か。
ごきげんよう志摩子さん。今日も活動頑張ってくださいませ」
 けれど、改善を求めたいのだったら手紙は具体的に書かれるべきだったし、私に直接渡す意味もなかった。
 ならば……言われたのは、私?
 私の、何が?
ごきげんよう
「あのっ」
 たまりかねて私は、帰りがけの一団に呼びかけた。
「私、最近、何か落ち度のあることがあった?」
 きょとんと目を開いて二回瞬きをした後、私の声に反応した面々はゆっくりと苦笑した。
志摩子さんがお悩みの姿、ずいぶん久しぶりに見ましたわ」
「ええ、本当に」
「何か、気に掛かることがあるんですか」
 それがわからない。だから私は、手紙の文言のままを、口にした。
「私、このままでいいのでしょうか」
「このままでいいのって……」
「何の、進行のこと?」
「進路のことですか? 来年とはいえ、まだ先の話でしょう?」
 耳のつかえが取れた。
 教室の窓、机、人の輪郭が、急に鮮明に像を結んだように感じた。
 ――ああ。
 分かってしまった。意図を。
「ああ、紅薔薇さま黄薔薇さまはもうすぐご卒業ですものね。同じ薔薇さまとしてふとご自分のことも考えたのでしょう?」
志摩子さんは白薔薇さまとして非を打つところがありませんし、成績も優秀、どんな進路でもご活躍できますわ」
「私たちも、あやかりたいですわ」
 シスターへの、夢。
 あの手紙は、やはり私に宛てられたものなのだ。



 問いを発する誰かがいるということは、即ち私を見ている誰かがいるということ。
「あなたなのですか?」
 私は、台座に立つマリア様を見上げた。この学園を見守る白いお姿は、雨の日も、抜けるような空の日も、そして今日のような灰を被せたような空の日も、慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。
 ただ、その笑みが、今は私に胸苦しさを覚えさせる。
 私には夢があった。たとえ家との縁を切ったとしても、神に仕えたいという願いが。
 この学園は、宗教の何たるかを知らねばならないと、諭され進んだ場所。出会う人間は、どんなに欲しても、いつか失ってしまう繋がり。
 偽証を胸に抱え、いつでも飛び出せるよう構えて過ごしていたこの世界は、さまざまな係わり合いを経て、いつしか自分から戻りたくなる巣になっていた。
 重さに意味があったロザリオはその役目を終え、乃梨子の手首ではなく首元に光っている。
 やわらかく暖かい場所は、お姉さまのそばだけでなく、皆といるすべての場所になった。
 キリスト教の勉強も、イエズス様の教えに従うことも、気持ちさえあればどんな場所でも出来るはずだった。
 だけれど、私はいま心から願っている。この学園にいさせて欲しい。ここから離れたくない。みんなと共にいたいと。
 それは修道院に向かう気持ちとは相容れない、自分だけを思う願いだった。
 このままで、いいの?
 ロザリオを渡す時、乃梨子山百合会の皆か、どちらかを選ばなければいけないと錯覚したことがあった。
 遠くない未来に、今度は、必ず選ばなければならない。
 ――このままで、いいの。
 よくない。よくないのだろう。
 このまま過ごし続けたら私は、今度はきっと、ここから飛び立つことを忘れてしまうだろうから。
「……どうすればいいのですか」
 私は目を瞑り、マリア像へ手を合わせた。普段は祈りが頭に浮かぶだけなのに、今日に限ってはなぜか『最後の審判』のそびえるような色彩が思い出された。
 空気の匂いが塗り変えられ、色彩はシスティーナ礼拝堂の壁面へと広がっていく。なぜかその光景には、記憶の中にある人だかりはなく。たった一人が跪いて祈りを捧げていた。

 ――ああ、あれは。
 祈りをしている自分、そのものだ。

 静かだ。
 瞼を開きながら私は、辺りから気配が消えているのに気づいた。
 これだけ人が多い学園でも、時々そんなことが起こる。エアポケットに落ち込んだように、周囲のすべてから自分が切り離されたように感じられるのだ。
 そんなときは、いつも自分の姿が見える。
 足元から広角レンズで見た世界が、視界に広がる。
 並木に囲まれ丸く切りとられた空。それをバックに立ち尽くす、もう一人の私を私が見ている。
 私はこの感覚を知っている。
 ずっと忘れていた、懐かしい――疎外感。
 同じ学園の中なのに、自分だけが薄い膜一つ隔てた向こう側に行ってしまったように思えたのだ。
 かつて私は、これが好きだった。
 心が落ち着いて、学園の誰からも……

「……!」

 背筋の中を、氷に舐められたような悪寒がした。
 私は、途方も無くお気楽な勘違いをしていたのではないか。
 このまま、というのは私のささいな行動ではない。仕事でも、進路でも、ましてや姉妹の事でもない。
 私の存在、そのもの。
 問うてきたのは仲間でも、マリア様でも、イエズス様でもない。
 ――かつて、私が望んだ世界。
 静さまに置いていかれ、泣き出すほど怖れた場所。
 お姉さまが卒業した時、再び望み、今うっすらとベールの向こうで影だけ見せているもの。
 鈍くなった私に、待ちきれずに歩み寄ってきたもの。
 得ることも失うこともない世界。
 私は走った。手加減無しに。逃げるために。走った。
 足を止めたら、その瞬間に飲みこまれるような気がした。
 あの世界に。
 人の消えた、楽園に。




 弾んだ息のまま、私は薔薇の館に辿りついた。
 ドアを閉めるかどうか、一瞬迷った。開いたままならそこから忍び込まれそうで、閉めてしまったら館ごと飲みこまれそうな気がしたからだ。
 けれどもあの世界の顔を見てしまう恐怖が勝り、私は寄りかかるようにして戸を閉めた。
 扉に背をつけひとまずの安堵を漏らすと、酸素不足と体の痛みが襲ってきた。息を吸おうとしても、腕の付け根から差すような痛みが放たれうまくいかない。そういえば去年、静さまに運動不足と笑われたことを思い出す。
 それでも、足を止めるわけにはいかない。ともすれば吊りそうになる足を引き摺って、私は通いなれた上の部屋への移動を再開させた。
 いつもの階段を登るのが辛い。肋骨の内側が針山になったようだ。手すりに掴まったまま、私は自分に悪態をつきたくなった。去年よりさらに体力が落ちている。老猫だって、もう少し優雅にあがれそうなものなのに。
 息を整え切れないままビスケット扉をくぐると、中では今度も先客が紅茶を飲んでいた。祥子さまと令さま。令さまのそばに紅茶の缶があるから、おそらく今日は令さまが入れたのだろう。
「あ、志摩子。いま入れたばっかりだけど志摩子も飲む?」
「息があがっているわよ、何か急ぎの用でもあったの?」
 聞こえるか聞こえないかという声で、いえ、と口にし首を振るだけで私は応えた。まずは息をつきたい。よろよろと、姿を見ずとも情けないと分かる足取りで椅子へ歩み寄った。
 だが、おかしなことに、近づけど近づけど、令さまの入れた紅茶の匂いは一向にしてこなかった。
 ――まさか、もう。
 私は席を素通りし、窓際へ向かった。
 これから誰か来るのが。来ないのが。乃梨子が来るのが。来ないのが。一番恐かった。
 二人に背を向けたまま、私は口を開いた。


紅薔薇さま黄薔薇さま
「どうしたの志摩子
 窓の桟に手をかけたまま私は続ける。とても二人の顔を見たままでなんて話せなかったから。
「望んでいた世界が生まれていたとして、そうしたら、どうなると思いますか」
「は?」
 二人の声が不協和音で重なる。いや、タイミングはばらばらだけれど、親友であるお二人の声はいつも調和して響きあっていたから、変に感じたのは私の心の持ちようなのだろう。
志摩子……全然意味わかんないんだけれど?」
 問いかけ直したのは令さま。
「例えば、小さい時にお菓子の国のお姫様になりたいという夢を持った女の子がいたとします」
 自分の声を聞きながら、私は震えを起こしていた。こんな例え話を用意して話し出した覚えはなかった。覚えの無い言葉が口から澱みなく流れ出している。まるで、台本を用意されたように。
「お菓子の国、ねぇ」
「時が経って、知らないうちにそのお菓子の国がその子の強い願望で生まれてたんです。そうしたら、どうなると思います」
 お菓子の国。そんな甘いものなんかじゃない、私に迫ったものは。
 この世の果て、鏡の中の町、生の絶えた世界。呼んでも叫んでも届かない遠い場所。
 それ以上向かうところも、訪れる人もいないところ。
志摩子、何が言いたいの?」
 祥子さまが苛立たしげな声をあげる。あげてると思いたかった。
 この期に及んでも私は、自分の本当の悩みを言葉にしようとしなかった。全身を締め上げていくような悩みの苦しみを、存在を揺るがされる恐怖を、何も知らない人に、軽々しく扱われることが嫌だったのだ。
「もしお菓子の国に人がいたら、招待状の一つでも出すんじゃない? 姫、国が完成しましたって」
 それを見抜いているのか知らないのか。令さまは本気にも茶化しているようにも聞こえる答えを投げかけてきた。
「招待状を?」
「うん。そして女の子は、お菓子の国と元の世界を選ぶことになるわね」
 あの手紙が、招待状だったならば。
 私はすぐさま内容を理解して、パニックになったかもしれない。あるいは逆に意味が分からず、授業に集中できていたか。
 手にしたあの文面こそ、私を最も揺らめかせ、不安がらせるかたちだった。
 私は言葉を返す。
「女の子は大きくなって、小さい頃の夢は薄れて大切なものが出来たんです。行く気が…いえ、もちろんお菓子も好きなんだけど、それよりもっと大切なものが出来て。状況が変わったんです」
「行かなければいいじゃない」
 祥子さまはにべもない。相談しているのにも関わらず、それが私の癇に障った。
「女の子一人の願いのために、お菓子の国は一生懸命作られて、招待状まで出してくれたんですよ」
「なら、行って真摯に断るか、観念するかじゃない」
「そうすると私は、この世界ではどうなると思います」
「いなくなるわよ」
 ざわり。
 背中から胸、胸から顎が悪寒で震える。
 向こう側に行き、なおかつこの世界にも同時に残ることが不可能であるのなら、確かにいなくなる。簡単なことだ。
 簡単なことだけれど、だからと言って割り切れるわけがなかった。
「大切なものを持ったままその国に行けば。一挙両得だよ?」
 乃梨子とふたりで、人の消えた楽園に?
 祐巳さん、由乃さん、祥子さま、令さま、静さま……お姉さまのいない世界で、乃梨子と二人きりに。
 荒涼とした人のいない世界。これが自分が過去最も大切にしてきたものだと、乃梨子に示す。それはこの世の何とも比べようもない、恥。罪というべき恥だった。
 そんな世界が、私に問いを発してきたと言うのか。
 私は、いまさっき、祐巳さんと由乃さんに助けを求めなかった事実と、その理由に気づいた。
 私は、知られたくなかったのだ。
 親友たちさえ拒む世界を望んでいたことを、愛する彼女たちに見せたくなかったのだ。



 リリアンの高い壁に並行して走る道路。冗談のように車が走っていなかった。
 まばらな人影。
 街路樹の影。
 次に私が認識できた光景はそこからだった。枯れた木々が頬に感じない風に揺らされ、日没前の静けさを際立たせている。
 薔薇の館からどう来たのか覚えていない。ちゃんとスクールコートを着て中身の詰まった鞄を下げてはいる。泣いたり叫んだりしていないことは、喉と眼の状態で分かる。それほどひどい姿は見せなかったようだ。
 ようだったから……大声で泣き出したくなった。
 お父さん、お母さん、お姉さま。祐巳さんのためには駆けつけてくれるのに、どうして私が苦しい時には助けに来てくれないのだろう、ありえないことまで思った。
 あのときの私の願いは真摯だった。盟約だった。
 私はその盟約が何かを知っていて、心底そうなりたいと望んだ。
 その意味を知ろうともせずに。
 バスが低い音を鳴らしながら目の前を通過してゆく。タイヤの転がる振動が靴から吸い込まれ、体内を淡く振るわせていく。
 緋色と茜色と、紫色のグラデーションの掛かった、美しい秋の夕焼け。眩しい太陽をずっと見つめることができるようになり、朝と同じように息が白くなり始める。
 けれども、決して朝と同じにはならない。西の空に浮かぶ太陽はやがて沈み、遊んでいた子供が、学生が、そして大人も外から消えてゆく。
 誰も、それを押し留めることはできない。
 無慈悲に追われるならばまだいい。あの世界は、私の中から生み出されたものなのだ。
 全てのしがらみから解き放たれ、墓地のように静謐な空間は、夢のために作られた夢だった。
 夢を追うことは、あの夢の中に入っていくこと。夢を捨てない限り、あの世界も終わらない。
 夢は、こんなにひとりきりでさびしいものだったのだろうか?
 そんな処に向かって歩んでいるのなら。もう、ここから先へなど進みたくない。前なんてみたくない。
 でも、いま時を止めてしまえば。どこまでも続く、泣き出したいほど赤い夕焼けが空に残るだけ。
 時を戻せば、乃梨子と積み重ねた、温かい時間が消えてゆく。
 進むことも、戻ることも、立ち止まることも出来ない心。
 それは、未来のようだった。
 手紙の差出人はいまどこにいるのだろう。次は何と告げにくるのだろう。
 この世界から突然引き剥がされるのではないか。
 ここではない場所がある不安。
 明確に名前を与えられた感情は、漠然としたまま私の視界を覆っていった。
 宵闇が、私の影を徐々に霞ませてゆくのが、たまらなく怖かった。









 夜通し、思考が堂堂巡りした。
ごきげんよう白薔薇さま!」
 数人の一年生が緊張した面持ちで声をそろえて挨拶する。寝不足の頭に、挨拶は変なリズムを伴って煩わしく聞こえた。
 お菓子の国へ行った女の子は、彼女を知る人にどう思われるだろう。好きなだけお菓子のある世界なんて夢みたい、自分も行きたかった、と羨ましがられるかもしれない。
 でも、女の子の方はどうだろうか。
 いつまでも、夢をかなえた喜びに、神への感謝に包まれていられるのだろうか。誰かとお菓子を分け合い、美味しいねと言い合った記憶を持つ少女は、あり余るお菓子だけでは淋しくないだろうか。
 意識が朦朧とするたび、ここからいなくなってしまうという恐怖で目を覚ました。授業中、一度も注意を受けなかったのに安堵しつつも、既に自分が皆から切り離されてしまったのかと言う不快感を感じた。
 昼食も取る気にもなれなかった。
 代わりに、講堂の裏の桜まで行ってみた。
「どうすればいいの」
 桜は何も答えない。
「どうすればいいのかしら」
 それどころかいつも感じていた、不思議な親近感すら薄れていた。
 その理由が、この木は地に根を張る限り他の世界へ旅立つことは無いからだと気付くと、話し掛けている自分が滑稽に思えて、私は黙ってその場を後にした。


 ――取り殺される。
 比較的冷静に、諦観かもしれないが、私は自分の心身を把握していた。
 手紙を受け取ってから、たった一昼夜でこのありさまだ。手紙の差出人はよほど藤堂志摩子という人間に詳しいのだろう。あれだけ短い文面に、彼女が最も苦しみ、そして最も効果的に破壊される罠を盛り込んだ。
 そこまでわかっていながら、しかし私は誰にも相談できなかった。
 それは愛しい乃梨子ですら。乃梨子は、強い個を持っているけど孤独を望みはしなかった。それが当然なのだ。自ら、世界とそこで生きる人との関係を打ち捨ててしまいたいと願った人間が、どこにいるだろうか。
 いや、たったひとりだけいる。
 佐藤、聖さま
 私の理性ではないものが、たちどころにその名を打ち消す。相談はできない。鏡のようなあの人は、おそらくこの手紙へ同じ感情を有してしまう。お互いの思いに引きずられて、衝動的に直接的な破滅を選びとってしまうかもしれない。
 楽になりたい。大好きな人たちと一緒に幸せなまま蒸発させられてしまいたい。壊れたような生からの逃避を巡らせて、私はいつしか昏い快感を得ていた。
「なあ、もし?」
 不思議なイントネーションで肩を叩かれ、耳の中の声は掻き消された。
「ちょっと尋ねてもええ? 保科栄子って先生、いまどこいるか知らん?」
 私の隣で、細いフレームの奥にある瞳が光っている。見慣れない私服姿から視線を下げていくと、予想通り足には来賓用のスリッパが見えた。
「どのようなご用件でしょうか」
 目の前の女性は、マニュアルじみた私の声に、束ねたお下げ髪をポンとはたいた。
「保科栄子はうちの母さん、うちはその娘の智子」
 相手はポシェットの中から学生証を突き出した。それは学歴というものに疎い私でも、十分に名を知る大学のものだった。
「朝から晩まで保健室いるわー聞いて来たのに、行ったら在室中の札つけたまま鍵かけとるし手紙もおいてへん、ぐーたら大学生がこんな敷居の高いところ呼びつけられるだけでもかなわんのに、ふらふら歩かれたらもうやってられんわぁ、隣の大学ちゃうんやで、さっきからなんぼ呼び止められた思っとるんや」
 ……生で聞くのは初めてだった。早い。
 しばし私は、悩みも忘れて関西の勢いに呆然となった。
 そのことに気づいたのか。保科さまは、んーっと顔を近づけ興味深そうに眺めまわした。
「面くらってるなあんた。……ま、東京のお嬢さま学校に、こんな話し方する奴なんかおらへんやろしなぁ」
「あ、あの」
「あー気してへん。新鮮やろ?」
 勝気に鼻をならしてから、保科さまはもう一度、で知らん? と私に尋ねてきた。
「保健室におられなければ職員室だと思いますけれど……お呼びしましょうか」
「ええよええ、自分で行く。ありがと」
 ほな、と片手を挙げて別れようとした保科さまは、しかし一歩で足を止め、眉根を寄せた顔で振り返った。
「――にしてもあんた顔色悪いで。まるでONEから手紙貰らったようやわぁ」
「え?」
 両腕から背中に鳥肌が立ち上った。
「悩みでもあるんか? こーこーせーは気苦労も多いやろうけど、ストレスは適度に発散せんと」
 手紙。いや、それにもっと奇妙な接頭語がついていた。
 目の前のレンズ越しの瞳が、怪訝そうなモノにはめ替えられる。
「……もしかしてやけど、逆? 『手紙』に心当たりがあるん?」
 頷いていいものか。
 迷う私と対照的に、この方のペースは速かった。
「あんた、急ぎか?」
「いえ…」
「ならちょっとお姉さんにおせっかい焼かせてくれん? うちのは後でええから。この近くにあんま目立たんとこない?」



「……なるほどなぁ」
 人気の無い廊下で、私は、初対面の女性に問われるまま、自分の抱えた悩みを語っていた。
 いや、悩みは聞かなかった。言えるもんでも軽々しくいうもんでもないやろといい、手紙の来た状況と文面だけを問うてきた。そして、それを聞くだけで相手は何らかの得心がいったようだった。
「あの、先ほどこの手紙のことを何とかとおっしゃってましたよね、わんから……」
「ちょっとその手紙、見せてくれん?」
 問いは願いにかき消され、私は言われるままに手紙を渡した。
 思えば、なぜ肌身離さず持ち歩いていたのだろう。
「大変やったろうなぁ…いきなり飛んできて、誰も詳しい中身は教えてくれん、でも不安で不安で仕方ない、うちが声かけなきゃ誰も相手にしてくれん……」
 失くしたくなかった、他人の目に触れさせたくなかったという思いは、もちろんある。
 だが、誰にも知られたくない相談できないと思いながら、心の奥では期待していたのではないか。
 手紙の深いところを知っている人が現れ、この重荷を取り除いてくれることを。
「だから、こうしてしまえばええんよ」
 あ、と言う声を出したときには仕事は既に終わっていた。
 純白の手紙は、不揃いの紙片になってリノリウムの床に撒き散らされた。
 血相を変えてあたしはその破片を拾い集める。何てことを、何てことをしてくれたのだこの人は!
「何をするんですか!」
「問題解決、これでもう悩まんですむやろ?」
 こともなげに言う彼女の目を、私は感情を篭めて睨みつけた。来賓に対する礼儀を思い出せないほど、胸に怒りが渦巻いていた。
「何があるかわからないんですよ!」
「真っ白な封筒に、真っ白な手紙が一通入ってる、せやから何か意味があるように思うんよ。破ってしまえばただの紙のクズやろ」
「ただの、じゃありません!」
 語気が強くなった。自分から生まれた世界とのやりとりを、こうも扱うなんて。
 私の身体がちいさく震えている。きっと怒りのためなのだ。きっと。決して怖がっているわけじゃない。
「――なあ、その破片にも文字は書いとる?」
「は?」
 保科さまは唐突に、意味の分からない問いかけをしてきた。
 馬鹿にしているのだろうかこの人は。
「そのためにわざと大きめに破いたんやけど」
 私は身体を屈め、かき集めた。あわせて10の不揃いのピースは、床の上ですぐに元の長方形に並べ戻すことができた。隙間から見えるリノリウムの色が、修復できない「時間」を示しているようで、また腹が立った。
「……どう? 見える? 見えるんだったらお姉さんにも分かるように、文字をペンでなぞってくれんか?」
 0.4ミリの極細のボールペンの先が、しゃがみこんだ私を指している。
 ペンを持つ彼女の瞳は穏やかで、お姉さまと違う、年上のお姉さんという温かさがあって。
 問題から出てくる答えをもう知っている、先生のような気がした。
「いえ……もう見えないです」
「……な」
 信じられないことだったが、どのピースにも、文字の痕跡はなかった。
 どれほど目を凝らしても、あの薄墨色の文字は影も形もなく。それどころかどんな字体だったかさえ、今では思い出せなかった。
「なーんて、うちも人の受け売りだから偉そなこといえんけどなぁ。うちも貰ったことあるんよ、その手紙」」
「え?」
 私の驚きなど意に介さなかったように、彼女は私に半身を向けた。
「全く同じ。このままでいいの、ってど真ん中に書かれたのな」
 私物のボールペンのキャップを締めると、それを無造作に胸元に放り込む。
「うち、高校生のころはこんなおせっかいやなかった。親の都合で友達から切り離されて東京放り込まれて……絶対大学は向こうに戻ったる思って、最初はガリ勉してた」
 保科さまは、眼鏡を外し、ハンカチでレンズを拭きはじめた。
ガリ勉っちゅうのは学生の敵やから煙たがられたし、イヤガラセもされたわ。けどな、どうせこいつら長くても3年で別れてしまう奴らやって思ってたから、無視しまくってた。逆に愛想振り撒くだけムダって思ってたから誰に対してもつんけんしてた」
「そんなこと……」
「でもおせっかいな奴が一人いてな、頼んでもないのにイヤガラセにキレたりしつこく話し掛けたりしてきて」
 しかも男やで、と保科さまは笑った。眼鏡を外したのに、そのお顔が、さっきより大人びて見える。
「そいつに付き合ってて肩の力抜いってたら、急にウケが良くなってそれなりに楽しなってきおって。そのうち、ここにいてもええかな……って思えてきたんよ。そんな時、手紙が来た」
 聞いていて、不思議な気分だった。目標のために人付き合いを避けたのも同じ、おせっかい焼きの男性を乃梨子と読み替えればほとんど状況は同じというのに、話の中身に親近感は殆ど沸いていなかった。
 なのに、この学園の誰よりも、私が言いたいこと、知りたいことが分かっているという確信もあった。
「手紙は、どこから」
「わからん、帰ったら机の上にポンって乗っかってて。捨ててしまえばよかったんやけど、うち、それができんかった。なんや今更って思いながら、震えたわ」
 目を伏せたまま、眼鏡をかけ直しつつ、答えを返す彼女。
「――昔の自分が今のうち見てたら、どう思うやろなって。痛いとこ突かれたんちゃうかって、思ってしまった」
 私は手を握り締めた。
 そうだ、そうなのだ。手紙の差出人は、過去の自分だったのだ。
 だから私は、これほどの感情を持ち続けられたのだ。
 誰よりも私を知る人間の言葉だからこそ、これほどまでに胸に突き刺さったのだ。
「自分のことやし何言いたいかすぐ気づいたもん。楽しいことが永遠に続くわけやないんやで、のんべんだらりと毎日過ごして目標下げてダメ人間になっていく、それでええんか!? ええわけない、でもだからって誰とも話さん、むっつりしてる昔の自分に戻るほども割り切れんし。メチャクチャ悩んだわ……」
「そして」
 保科さま、いえ智子さんは、乗り越えた。私を笑いながら救える素敵な女子大生に。
「ひとりじゃあかんって思って相談したねん。浩之いうてな。したらあいつ、あんたにやったように目の前でいきなりびりびりっ! て。うち食って掛かったよ、何すんねんボケ! ってそしたらあいつ呆れた顔でな『委員長、こんなのただの不幸の手紙だろ?って』……あはは」
 智子さんは心の底からおかしそうに口元とお腹を押さえた。突然のことで表情を作れずにいる私を放って置いたままで。
「腹立って『なんやあんた、家の机に置いてあった言ったやないか、親が置いたって言いたいんか!? それ以前にここに書いてある字ぃも見えんのか!』って一発張り飛ばしたんよ。でも浩之まだ言うねん、『俺には見えない。なぞって書いてくれよって』。馬鹿にされてる思ったけど、こっちも意地になって繋ぎなおして書こう思ったら、全然見えんの。その瞬間はっと覚めた」
 そこまで語って、セリフ通りにはっとした表情をした智子さんは、ばつの悪そうに眼鏡をかけ直した。
「あかん、つい熱ぅなってもた。堪忍な」
「いえ」
 私は先ほどまでの態度を思い出し恥じ入っていた。
 手をあげるなんてことはよもやないとは思うが、私にも、確実に冷静さはなかった。
「――結局な、自分の問題なんよ」
 軽く指で目元を押さえると、保科さんは私に視線を合わせ直した。
「いきなり連れてかずに、聞いてくれるってことは『うちは無理強いせんよ』そう言うとるんよ。だから思い切って言ってやったらええねん。うちはこれでええ! って」
 そう言うと腰に手を当て、智子さんは胸を張った。
「そもそも20前の子供が、一度で正解の選択肢選ぼうとするのが土台無理なんや。それをもっとガキの自分に責められるいわれなんかない! 何も知らんくせにな」
 智子さんは勝気に鼻を鳴らした。
「ウチだって彼氏のために進路変えたけど、それで後悔はしてへ……あ、彼氏はいるん?」
「いいえ。でも分かります、そのぐらい大事な妹がいるんです」
「そかそか。ならその妹さん大事にせんとな」
 この学校でいう「妹」を、智子さんはきっと知らないだろう。それでもいい。
「夢は膨らせるもんで、変わっていくもん。今あるものをがりがり削るのは夢ちゃう。現実失いそうなら夢の方修正していくべきやで。現実あっての夢、そう思わん?」
「ええ。私は前の自分よりきっと、いい人間になっているはずですから」
 それだけのことが、彼女の言葉の価値を減じてしまうなど、できないのだから。
「よし、もー大丈夫やな。なんかしょーもない過去語りまでやってまったけど、あんたの顔が晴れてよかったわぁ……あ、あかん、あんたの名前聞くの忘れとったわ」
志摩子です、藤堂、志摩子
 額に手をやる智子さんへ、私は山百合会の仲間にするように微笑んでみせる。
「藤堂さん、ほな、がんばりや」
 満足げに頷いて智子さんは今度こそ、と片手をあげて歩みだした。
 ――風のような人。
 それも春一番のような、とても強い風を吹かす人。
 そんなことを思う心地よさに包まれながら、私はその背を見送った。
「……子さん? 志摩子さん?」
「ひゃうっ!?」
 突然の呼びかけに、物を詰まらせたような声をあげ、私は背筋をこわばらせた。
 恐る恐る振り向くと、乃梨子が両手で胸を押さえている。
「お、脅かすつもりは無かったんだ、ごめんね。昨日志摩子さんの様子が変だって聞いたからすごく心配してたんだ。それにしてもここで何してたの、見たって人がいたから探しに来たんだけど、今出て行ったあの方は志摩子さんのお知り合い?」
 緊張を押し隠すように、乃梨子は一気に用件をまくし立てた。私は、そんな乃梨子を落ち着かせるよう、胸の前で重ねられた手を、自分の左手で剥がしてあげる。
「ちょっとね、外部の方とお話してたのよ。保科先生を探しておられたの」
「そうなんだ」
「心配かけてごめんなさいね、もう大丈夫よ」
 その一言で、目の前に大きな花がひとつ開いた。
 私は何を迷っていたのだろう。
 あの冬の日にケーキを食べながら当たり前のようにお姉さまがいたように。
 乃梨子は私がどこに行こうとも、探し出してくれる。
 ふたりでいれば、ひとりじゃない。ふたりを取り込もうとすれば、あの世界は世界自身でなくなってしまう。
 私には、乃梨子がいる。乃梨子が必要なのだ。
 あの日、もし乃梨子山百合会を選べといわれたら。
 苦しんだ末、きっと未来をかけて、私は乃梨子を選び取ったはずなのだから。
「なら、今日も薔薇の館にいくよね」
「ええ」
 望むままに歩いてみよう。
 もし夢が変わってしまったとしても。
 智子さんのように幸せに笑えるかもしれないし。
「じゃ、一緒に行こう」
 それこそが、私に示された導きなのかもしれないのだから。
「……志摩子さんも、いいんだっ、て自信を持って返事してほしいな」
「え?」
「いこ、志摩子さん! みんな待ってるよ」


 私の手を引くその袖口から。
 白い紙片が一枚、ひらりと離れていった。

※過去の自作の再掲

姫眠る森のいばら(ぼくたちは勉強ができない・鹿島さんSS)

突然ですが、告白してもよろしいでしょうか~?
……なんて、聞こえるわけありませんよね、古橋文乃姫。
先ほど私の号令で、あなたは悲鳴とともに、お着替えに行ってしまわれたのですから。





二年前の、この時期でしたね。

「鹿島さんのこと、前からカワイイと思っててさ」

私が、あまり気の進まない告白を受けていたのは。

「文化祭、いっしょに見て回りたいんだオレ。つきあってくんない?」

でも、私も若くて、まだうぶでしたから。
そもそも付き合うって、本当に相性が合うか、試すことでしょう。
何か、発見があるかもしれないと思って。
なんとなくで、その告白、受けようとしていたのですね。
なのに。

「短期間ですごい変わり身。まるでボウフラみたいでステキな告白だね」

すさまじい毒舌が抉りこんできたのですから、どれほど私が驚いたか、あなたは知らないでしょう。
そしてきっとあなたは、これを知ったら、取り消してっ! と手を振り乱して叫ばれるのでしょうね。
でも私の心、ばっちり覚えてしまっていますの。
あなたの最初の記憶は、例えようのない、怒りの顔なんです。
空気の色が違う、なんて、ありきたりすぎる表現でしょうか。
美人が怒るとこれほど怖いのだと、私まで背筋を凍らせて、呼吸を止めたんです。
あの男はあなたを見たとたん、二の句も告げず、猛然と走り去りましたよね。途中で無様に二度も足をもつれさせ、三度目についに転がって四つん這いで逃げ去って。

「だいじょうぶ、でした? 思うところがあったので、つい」

私の固まった顔を見て、一転目を伏せ、恥じらうようにうつむいたあなた。
どんなスタイルにも、意のままに従いそうなさらさらの髪。
お化粧品が遠慮を願い出そうなお肌。
目元を彩る睫。甘い香り。
華奢な肩に、スカートから覗く足の細さと長さ。
全てがスペシャルオーダーでできているようなあなたの身体に、息を飲み、眼を離せなくなったこと、忘れられません。

「真っ先に声をかけたわたしが断ってから、誰彼構わず、声をかけているみたいなんだ、あの人」

だから、真っ先にという言葉にだって、少しも嫌みや自慢なんて感じませんでした。
あなたの隣で歩けたら、きっと、誰もが振り向くでしょう。
あんな男の、ちっぽけな自尊心も満たされることでしょう。
誰もが、私だって男子なら、きっとそうしたくなるのでしょう。
助かりました、と言うのが精いっぱいだった私。
そこから、やっと今のあなたに繋がりますね。
にこっとした笑みで、お礼なんていいよと言ってくれたあなた。ようやく名前を聞くことができました。

「わたし、古橋文乃。よろしくね!」



あなたが近くのコンクリートに座り込んだので、私も座り、話しかけました。

「ありがとうございます。勇気、あるんですね」

私も少林寺をやっていますから、荒事だったら負けるとは思いません。
でも、自分の心に迷いがあったら別です。

「そんなことないよ。男の人、全般苦手かな。お父さんが怖くて」
「そっか、お母さんも大変ですね」
「――ごめんね、いないんだ、わたし。お母さん」

とっさによぎった言葉は、地雷。
さっきのあなたの怒りを思い出し、わたしの凍った血、全身の神経を嫌と言うほど刺しました。

「ごめんね、いきなりそんなこと言われてもコメントできないよね」

なのに。
私よりも畏まり、落ち込んだあなたに、すっかり私、心を奪われてしまいました。
美しく、心優しいお姫様って、本当にこの世にいるんだって。
そこから、お互いを知るために、たわいのない話をしましたね。
私の友達のこと。
この半年ぐらい教わった、先生たちのこと。
あなたは数学がとても苦手で、数式を見ると頭が真っ白になってしまうこと。
私も自慢できる成績ではありませんが、それでもテスト前に、助けてさし上げたこともありましたね。
赤点スレスレではありましたが、姫を進級させるお手伝いができたことは、私の、ささやかな誇りです。
そうそう、今思い出しました。話しながら、何回かすとん、と視線が落ちてましたよね。
確実に胸元、測ってましたよね。気づいてましたよ?
もしかして、あの親指姫みたいな子でしたら、見逃されていましたか私?


部活の時間になったので、惜しい気持ちを押さえ、私は立ち上がりました。
一緒に立ち上がらないから首をかしげた私に、もう少ししてから行くよと言って、笑っていたあなた。
――許してくださいね。あの日の私はそれに気づけるほど、まだ賢くなかったのです。
いまなら分かります。
あんな男でも、あの台詞を投げつけるために、どれほどの勇気が必要だったか。
あなたは、私以上に、怖くてたまらなかったんですよね。
その結果、すぐに立ち上がれないほどに、膝を震わせていたのですよね。
親友でも何でもない、私のために。


その最低な男のおかげで、しばらくすると女子に小さな輪が出来ました。
姫に救われた子。姫に救われた私のような子に、助けられた子。そんな子たちの小さな集まりです。
みなの思いは最初からひとつでした。
青春の思い出を汚されずに済んだ、あの彼女に報いたい。
だから、彼女には、女子のネットワークを駆使して、あらゆる角度から分析した、最高の男性だけを提供しよう。
私たちのスクリーニングの前に、姫に声をかけることなく散った数が両手になった頃、誰からともなく私たちは、自分たちをそう呼び始めました。
そうと知らなくても、耳にはしたことが、あるかもしれませんね。
『いばらの会』と。



――だから、山岡の時は、人生最大のミスでした。
3-Aに会を設置をすることかまけていて、よりによってあんな男を姫に近づけてしまうなんて。
本当は直接謝りたい。だけれど、できない。
その名を口に出すのも忌まわしいあの男め、どんな目にあわせてやろうか。
腸が煮えくり返りそうな思いで、私は当てもなく校舎を歩き回っていました。

「いい加減にしろよなんなんだよあんた!?」

自分が打たれたように、私は痛みを感じて、声の方を向きました。
その先には、ひ弱そうなガストンと取り巻きと、そして見慣れない男子がひとり。
……山岡!
手を握りしめ、私は今からはじまろうとする展開を目に焼き付けようとしました。
何か理由がつけば、遠慮なく拳を叩きこんでやるために。
なのに。
見慣れない男子の方が、なぜか頭を下げました。

「俺は、あいつの『教育係』だから」

きょういく、がかり。そんな係が、いつからできたのだろうか。
頭で、やり取りが巻き戻され、頭の中を激しく巡ります。
古橋文乃、の教育係。素行なわけがない。文字通りの勉強。文系科目なわけはない。では、理数科目を? 今から?

「さっきからあんた意味わかんないんだよ気持ち悪い!」

混乱する私の前で突き飛ばされ、強く柱にぶつかる彼。
柄にでもなく私は悲鳴をあげかけ、でも飲み込みました。
額から血を流した顔。私より強そうでもない身体。
殴り返すでもなく、すがりついて「告白を待て」と繰り返すだけの、全くかっこよくないその姿。
でも、その、決して揺るがない意思に、私は目を奪われました。
やがて捨てゼリフを吐き駆け去っていく山岡の行く手は、日がまだ高いのに薄暗く見えました。
その反対に。

「結果オーライかな!」

ひとり笑って鼻を拭く姿は、輝かんばかりで。
私は、立ち尽くしました。
こんな人が、学園の中に、まだ残っていたのか。
姫より大きく成長してしまった胸の前で、今度は優しく手を握りしめ、私は根拠もないのに、悟りました。
――彼です。彼がきっと、眠れる彼女の王子様です。
だって。姫は、なぜか舞台劇のようにそこにいて。

「唯我君ムチャしすぎ!!」

傷ついた王子様の手を引いて、すぐに舞台袖に向かって消えていってしまったのですから。



だから、心の中ですけど、いま告白します。
『3年A組の』いばらの会の皆さん。巻き込んでしまってごめんなさい。
私の中の結論は、あの日に出てたのです。
これまでのことは、彼のお披露目と、証拠固めです。
私、目には自信がありますから。
当たり前です。この大きな学校で、何人の男どもをふるいにかけてきたとお思いですか。
あとから入る彼の不純な話にも、私の見立ては変わりませんでした。
彼女を、ついに託せる人が来たのだ、って。
でなければ、あなたが外泊した写真を見つけ、心が弾むなんておかしいでしょう?
文学の森の、眠り姫。
アニメの中に踊るモダン・プリンセスたちに比べ、なんて古式ゆかしく、歯がゆい、彼女なんでしょう。
誰かと戦うことなんて知らず、王子様を待って、眠り続けるあなた。
友人のために胃を痛めて、たびたびクラスで震えていたあなた。
それが、本当は胃ではなく、恋するあなたからの悲鳴なのだと、何度喉まででかかったことでしょう。
そのストレスが、時折、びっくりするような強い毒舌を借りて、外に出ていたのでしょうね。
そんな棘のある言葉たちも、夏を過ぎたころから、心の内に閉じ込められていきました。
『古橋さん』は気づいたか分かりませんが、私は信じてます。
きっと眠れるあなたが、王子様の目を意識したからだ、って。
だけれど、数えきれない昼と夜を越えたいばらは、それでもう待てなくなりました。
あなたの恋が目覚めるか、覚めない眠りについてしまうのか。
見守るだけは苦しくて、切なくて。
ふとした瞬間に、大事な王子様まで、トゲで刺してしまいそうで。




閉まった戸の音で、私は物思いから現実に還りました。
文乃姫が去った教室の明かりが消え、プロジェクターの光が、正面から私を照らします。

「さて~、では本題に入りましょうか~」

――時は、来ました。
いばらは、諦めの悪いヴィランではありません。
相応しき王子様が来たその日には、自ら道を開く度量は持ち合わせているのです。
だから。
人魚姫よ、遠くの海で、静かに泡となっておくれ。
親指姫よ、ツバメに乗って、異国の王子に嫁いでおくれ。
やはり悪役(ヴィラン)かと、私はひとり吹き出しました。
この学園の悪役なら、さしずめあの方でしょう。
火炎の代わりに吹雪をまき散らし、流行りの映画のように国をみな凍てつかせてしまう……そうでしょう『氷の女王』?
擦り切れるほど見返した台本に、また目を落とします。
姫を眠りから覚ますための、昔ながらのストーリーの書かれたそれを。
さあ、王子様、間違いなく姫を起こしてくださいね。
何せ、恋する少女という自分さえ、眠らせてしまうような彼女です。
外に見えてる、強くて姉のように人を支える姿は、本当の姫とは違うのです。
そして、あなたが眠りを解いたなら。
いばらは、喜んで姫の花飾りになりましょう。
花になった私にも、あなたの顔、よく見せてくださいね。
私の素敵なお姫様を託す王子様、憧れの、その凛々しいお姿を……


姫眠る森のいばら~Can thorns have a dream?

fin