虫の音が、りりりと鳴って。
窓はしまってるのに、鼻の奥に、外のキンモクセイの香りがする。
腰を下ろしたラグの上から俺は、ベッドの上で、あどけない顔をして眠る文乃を眺める。
ずっと繋ぎっぱなしで、しっとりとした手を組み替えようとして。
幸せなそうな寝顔を崩したくないから、やはり止める。
思わずつつきたくなる、柔らかそうな頬も、眺めるだけにして。
眠る前に交わした約束、その言葉をひとり、思い出す。
「眠るまで、手をつないでいてほしいの」
――お父さん、今日は学会で帰らないから。
あの時みたいに、握っていてほしい。
ふたりで過ごした帰り際、服の裾をつままれ、突然、文乃から消え入りそうな声でそんなことを言われた。
流されるまま彼女の入浴と、着替えを待ち、夜に立ち入った彼女の部屋。
文乃は言葉もほとんど交わさず、電気を消し、ベッドに潜り込む。
「……あまり元気なかったのは、今日からその、あの、そういう日だから」
「あ……大丈夫、水希いるし、俺も最低限は、うん、分かるよ」
照明が消え、カーテン越しの光に、青みがかったモノトーンになった部屋。
見覚えのあるもの、まだないもの。いろんな文乃のものを見渡しているうちに、また、微かな声が漏れる。
「……ごめんね彼女なのに。いろいろ、考えさせちゃった?」
「ううん、大丈夫。安心して休んで」
それでも、文乃の顔は冴えない。
空気を変えたくて、俺は腰を浮かせ、立ち上がる。
「窓開けてもいい? ここから星、見えるかな」
「……いい」
固まった声が届く。
振り返った先で、上半身だけを起こし、口元まで布団を寄せて、一枚の絵画のような文乃が、俺を見ている。
「きょうは、いい」
「そっか」
そのままベッドのふち、足先の方へ座る。
言われた約束を果たすため、どちらの手を取ったらいいかなと考えつつも。
俺は、実際に自分の腕を伸ばすのを、ためらってしまう。
代わりに、この部屋、秒針の音がしないんだなと場違いなことを考えて、なんとなく、文乃の声を待つ。
「……今度ね、大学祭で、プラネタリウムをやるんだ」
見つめるだけの沈黙に耐えられなかったように、文乃がまた、口を開いてくれる。
「そうなんだ」
「一年生みんなでね、台本作って、読むの」
「今の星空? ペガスス座とか、フォーマルハウトとか?」
無言で首を振る。
「それもあるんだけど。聞いてくれる?」
短く息を吸い。
俺の視線と呼吸も、吸い込んで。
それきり、文乃の声が、舞台の上にあがる。
――夏や冬の夜空に比べて、秋の星空は一等星が少なく、淋しく感じるかもしれません。
その中でもひときわ目立つ、ペガスス座の四辺形。そしてそこから、南に伸ばした先、みなみのうお座の口に輝く、一等星のフォーマルハウトは大変有名です。
ではきょうの私たちは、さらに南、ずっと南に降りていきましょう。なんだか、温かくなってきました。
……さあ、ここはシドニー、オペラハウスの前です。
俺の目にひとりの顔が映し出される。
そして文乃の様子の原因を、勝手だけど、想像する。
――見たことのない夜空が写っています。見慣れた星座は形が逆さま。低く地を這うはずのさそり座は天頂付近に輝き、天の川はまるで雲のように濃密に輝きます。
この夜空を、きっと毎晩、見上げるひと。
武元うるか。
そう、なんだろうか。
――南半球の夜空は特徴的ですが、南十字星、サザンクロスを抜きには始められません。北極星のような南を示す星がない南の空、船乗りたちはこの星座を頼りに、未知の海へとこぎ出しました。
でも、ご用心。南十字には、偽物がいるのです。
そこで文乃は解説を切り。
困り笑いのような顔を、作って。
指先を、平らな部屋の空に向けた。
――にせ十字は、昔存在した、空を行く船の星座・アルゴ座の船の部品、ほ座とりゅうこつ座の星を結んで現れます。揃った二等星の明るさで、本物よりも大きく、先に夜空に現れます。
初めて見る皆さんは歓声をあげますが、2つの一等星が輝く本物は、その後にやってくるのです。慌てん坊の船乗りは、この輝きを見ないまま、暗い夜の海でさ迷ってしまったかもしれません。
「自分が、にせ十字かもしれないってこと」
たまらず俺は、さえぎるように言葉を挟む。
「違うのっ、謝るのは、うるかちゃんの方なのっ」
今度こそ意味が分からない文乃の台詞は、すぐに涙声に溶けて。
それきり、しゃっくりあげる彼女の背を、俺はただ、撫で続けるしかできなかった……。
*
それからどれだけ時間が経っただろう。
遠慮がちに俺が座ったベッドサイド。
彼女の右手を、今さらのように左手で押さえて。
さっきよりは近づいた俺たちふたりの間に、諦めたように、文乃が言葉を置き始める。
「……わたし、成幸くんの彼女でいられて、毎日幸せで。やりたいことは、どんどん叶っていって。彼女らしいわがままなんて思いつかなくて。だから、時々たまらなく不安になる。彼女として、幸せすぎることが」
跳ね上がった心臓の音が、部屋の空気を震わしたようで、怖くなる。
まるで、自分の胸の中の日記帳を、文乃に読み上げられたような気がしたから。
見ているだけで胸が潰されそうな、不思議な笑みを浮かべて、文乃が、話しかけてくる。
「――そんなとき、この台本がきて。練習してから、夢を見るの。うるかちゃんの、夢」
「うん」
「先に空に上がってきて、成幸を惑わしちゃってごめんね。これからは彼女の文乃っちが、正しい方へ導いてねって。謝るの。わたし行ったことないのに、夜の、オペラハウスの前で。笑顔で」
掛け布団のすそが引かれて。
ことばの調子が、強くなる。
「こんなに時間がたったのに。うるかちゃんの思いも知っているのに、夢の中まで都合よく謝らせて、自分の気持ちを守ろうなんて。なんてわたし、嫌な女なんだろうって」
ぽろぽろ。
ぽろぽろ。
掛け布団の上に、音を立てて雫が落ちる。
「こんな彼女、成幸くん、嫌いになるよねって思う。そんなこと、考えただけでもこわい。でも自分でどうしたらいいかわからなくて。助けてほしくて。わたし、おかしくなっちゃいそうで」
――ああ、文乃。
口を開くのが、怖い。
だけど、俺もただ正直な思いを伝えたくて、話し出す。
「解説を聞いて、俺もすぐ思い浮かんだよ。文乃はすごく嫌だと思うけど」
びくん。
俺が座るところまで、震えが伝わる。
「俺たちがうるかのこと引きずるのは、仕方ないんだと思う」
うるかだから。
悔しさも、腹立たしさも、笑い飛ばしながらあけすけに言ってくれる、うるかだったから。
夢に向かって旅立とうとするその時に、ふたりがかりで『ごめんね』を告げて、俺たちは結ばれた。
「でも」
……こつん。
額を合わせて、俺は告げる。
「それなら、一緒に引きずるよ。いつまでも」
視界いっぱいの文乃から、驚きが伝わってくる。
「すり減って、すり切れて、それがなくなってしまうまで」
そこまで言って俺は彼女を抱き寄せ、頬を寄せる。
「離さない。俺は文乃に恋してる。いまも、これからもずっと」
そしてもう一度、お互いの姿が見つけられるように、身を離して。
あの星空の下の約束の通り。
その肩が震えないよう、優しく、でもしっかりと支える。
「文乃は、優しい。それは、俺がとっても好きなところだよ。でも、俺たちこれまでは『いい子』でいようとしたんだ。もう少し、ずるいやつらになろうよ」
「……っ……」
「とことんまで引きずりながら、でも、ずっとふたりでいようよ」
「……っ……なりゆきくん……!」
勢いよく流れてきた髪が、俺の目の前をさえぎる。
花園で目を閉じたように、文乃の香りでいっぱいになる。
今度は俺が、愛してる文乃の腕の中に包まれ、頬に熱を感じる。
「めんどくさい彼女でごめんね。甘えてばかりで、ごめんねっ……」
「……ふふふ。不安でも心配でも、俺の『彼女』だってとこは、ぜったい譲らないんだね、文乃?」
「え」
「いま自分のこと、たくさん『彼女』って言ってたからさ」
「あ……」
「嬉しいよ」
俺の忍び笑いに身を飛び退かせ、華奢な指をいっぱいに開いて、文乃が口を隠す。
「……いま、何か、言いかけた?」
「……うん。いまの成幸くん、なんかちょっとりっちゃんみたいだったなって」
そのことばに、記憶から緒方の顔が飛び出し、俺は少し慌ててしまう。
それが見えたのか。
器用に。
くすくす笑って、文乃が、俺の動揺に応える。
「わたし、わかっちゃった。だからもう、だいじょうぶだから」
ささやかに反らせた胸から、自信に満ちた、彼女の声が紡がれてくる。
「だってわたしは、唯我成幸くんの最初で最後の彼女、古橋文乃なんだもん」
文乃が俺の掌を握る。
「そう成幸くんが、保証してくれてるから」
これまでなかった強さで、痛いぐらいに、ぎゅっと。
「だから覚悟してね成幸くん。わたし、決めちゃったよ。この手は、何があっても離させないよ」
俺も、その手を包み返す。
「うん、だいじょうぶ。文乃は怒ると怖いから」
「もう」
繋いでいた手がもう離れ、俺の鼻の先を遊ぶようにつつく。
知ってるよ、文乃。
俺たちが繋いだ手は、目には見えない。
誰も触ることなんて、できないよね。
「――窓、開けようか」
少しの見つめ合いのあとで、俺は窓に向かって体をよじる。
夜の風がまだ、あの秋の香りを運んでくれるはずだと思って。
けど、文乃は静かに首を振る。
「きょうはいいの。星より大好きな成幸くんの顔を見ていたいの」
浮かしかけた腰をまた下ろし、俺は大好きな彼女の髪を指でとかす。
この思いが、言葉にできなくて。
指先からそれが、少しでも伝わればといいなと願って。
「――きょうは、幸せなきもちで眠れそう」
改めて彼女が、身を横たえる。
自然と俺は、ベッド下のラグに身を移し、彼女の利き手をとる。
「おやすみ、文乃」
幸せな眠りが訪れるように。
俺はそのおでこにひとつだけ、唇に乗せた思いをのせる。
それで、満足したように。
眠り姫が、瞳を閉じる。
「……おやすみなさい、成幸くん」
「……くん」
見つめ続けていた、満面の笑みの口元が緩み、しばらくぶりに、愛しい彼女の声がする。
「……なりゆきくん、おかわり……」
――これを聞いて、静かにしたままでいろって?
いじめのような文乃の一言に、笑うのを必死にこらえ、俺はその顔を優しくにらむ。
「待ってて、文乃」
まずは言いつけ通り、額にもういちど唇を落とし。
眠りに落ちるには不自然な服と体勢だけど、彼女が待つ世界へ、俺も意識を向けていく。
明日は、誕生日のプレゼントを買いにいこう。
それだけを思い出しながら、俺も、いつしか心地よい眠りに誘われていった。
[x]なき夜に姫は眠る
fin