SSの本棚

書いたSS置き場として使ってみます。

ONEから来た手紙(マリア様がみてる・志摩子SS)

※過去の自作の再掲
※要:マリみて「レディGO!」付近
※推奨:ONE~輝く季節へ~ 知識 To Heart智子シナリオ



 それは教室の暖房から埃が払われて、まもなくのことだった。

「それで乃梨子ったら『せっかくだから浴衣姿のままの志摩子さんと歩きたかったなぁ。あ、薄すぎて寒いかな? でもそしたら私があっためてあげるから』って。混んでるところで堂々と言うんだから、もう恥ずかしくて」
「わ、大胆。……あ、もうすぐお昼時間も終わりですね」
「早いですね」
 その声で、各々が席を立ち、自ら昼休みの終わりを告げる。
 寄せ合っていた机を元に戻し、借りていた席を持ち主に返して。
「でも驚きましたわ。白薔薇のつぼみは、志摩子さんといる時はそんなにくだけているんですね」
乃梨子、意外に恥ずかしがりやだから」
 私も冗談を口に含んで借りていた席を離れる。
「またまたご冗談を」
志摩子さんも妹にはぞっこんなのね」
 私を含め、クラスメイト全員が妹のいる二年藤組。何か話を始めるとすぐ妹のことになってしまうのは、ある意味仕方ないことだ。特にそれが、一大イベントの学園祭の後ともなれば。
 乃梨子の話をするのは、好きだ。
 誰かに聞かれてするのも、自分から話すのも、そのたびに頬が緩んで胸が高鳴るのを感じる。妹の話をしている時の志摩子さんが一番幸せそうと言ったのは、祐巳さんでも由乃さんでもなく、同じ藤組のクラスメイトだった。
 姉妹(スール)の話が心地よくなったのは、みんなより間違いなく遅い。一年生の頃は、三年生の白薔薇さまから二年生の紅薔薇のつぼみから妹を申し込まれた生徒として、分不相応な尊敬を受けていた。
 お姉さまと姉妹の契りを交わした後も、無言の繋がりを説明できないから疎ましかった。何より、自分自身に、距離を置いておきたい事情があった。
 それが銀杏の中の桜から、変わった。お姉さまと出会った特別の場所から、変わった。
 乃梨子が来てくれたから。乃梨子に出会って、自分を縛りつけていた重い鎖を解くことが出来たから。
 だから私は今日も学園にいられる。クラスメイトが同じ目線で笑ってくれ、それに心地よくこたえることができる。

 幸せだった。
 ずっと幸せだった。

 使いなれた弁当箱を机に置き、私は脇に下げた鞄を開く。次の科目は数学だから移動しなくても良いけれど……。
志摩子さん、このお弁当包みは志摩子さんのじゃありませんか?」
 声のする方で、うぐいす色の包みが左右に触れている。
「あ、そうだわ。ありがとう」
 照れくささで、頬を軽くこすりながら私は立ち上がる。きっと、白薔薇さまも妹の話に気を取られて、なんて皆が思っているだろう。
 まったくその通りだったから、嬉しかった。

 ――そう、私が机から目を離したのは、このほんの僅かの間だった。

 手渡された包みを持って、席に戻ろうとした私の目は。
 自分の机の上に現われた、一片の、真っ白い封筒に釘付けになった。
 弁当箱と教科書の乗るこげ茶色の天板の上で、強烈な違和感を訴え続ける白さ。一枚のよく出来た絵画に、ちらしの切抜きをコラージュしたようなほど、本来文房具であるはずのそれは、周囲との調和を欠いていた。
 あれは私の持ち物じゃない。さっきまではなかった。
 椅子の前まで戻った私は、立ったまま弁当箱を包んで鞄にしまった。不在だった机の持ち主が席に戻ったことで、封筒の差出人が、意図を伝えてくれることを期待しながら。
 待つ、見る、待つ……けれど、無言。
 望みが叶わないと悟った私は、広くなった机上からそっと封筒を取り上げた。紙の感触と重さが伝わってきた途端、理由もわからないまま安心してしまう。
 どこにでもある封筒に、どうしてここまで心を乱されているのか、その時の私にはまだ分からなかった。
 目までの距離が近づくと、改めてその白さが目に付いた。一言で言って、紙らしくない。見ているだけで意識が他の世界に引き込まれ、遠のいてしまいそうになる白だった。
 奇妙な作りの封筒だった。普通封筒の裏は、真ん中か対角線に沿って、紙を張り合わせた跡があるはず。けれどもこの封筒はどの部分を接いでいるのか分からないように作られていた。封がされた形跡もなかった。
 でも私には、なぜかこれが封筒だと分かっていたのだ。ただの白い紙ではなく、中身があるのだと。
 指をすり合わせると長方形の長辺が開いた。封筒とほぼ同じサイズに切られた、同じ色の紙。かろうじて見える折り目をつまんで引き出す。
 誰も話し掛けてこなかった。クラスの中ごろの席で、休み時間の終わり、ひとり立って奇妙な手紙を開いている私に、誰も話し掛けてこなかった。
 私は手紙を両手で開いた。








 このままで、いいの?








 ノートより小さい白い手紙。それが私の世界の全てだった。
 おそらく鉛筆で書かれた薄墨色の筆跡が、距離感をつかめさせぬまま私の前に立っている。
 私は柔らかなその文字に問い掛けた。
 何がこのままでいいの、と。
 尋ねている相手は私なの、と。
 あなたは誰なの、と。
 どの質問にも答えは返らない。文字は再び繰り返す。「このままで、いいの?」と。
志摩子さん、志摩子さん」
 後ろから呼ばれた声で私の五感は教室に戻った。耳には始業の鐘の音が聞こえ、口にはお茶の微かな渋みが感じられ、鼻は教室がいつもと変わらず異常がないことを知らせてくれる。
 そして、手は。唐突な手紙の感触を伝え続け、目は、教室の床とクラスメイトの間に白い手紙を見せてくれる。
 心臓が早鐘を打っていた。
 いたずらにしては、内容があまりにも抽象的。
 嫌がらせにしては、文句があまりにも優しい。
 本当の質問にしたって、意図が不明瞭だ。
 このままで、いいの?
 挨拶をした。先生が終わったばかりの学園祭の話をしている。黒板に三角形が書かれた。どれもが私の心を捉えることが出来ない。
 意味がわからないと、忘れてしまえばいいのに。
 このままで、いいの。
 たった一枚の手紙が、ありふれた日常をかき乱している。
 このままでいいの。
 手紙は何を訴えようとしているのだろう。
 何が、変わらなければいけないのだろう。
 ――結局数学の時間は、黒板を写したノートだけが残った。


 次の時間も、放課後も、考え続けた。
 問われたのは、学園内のことだろうか。
ごきげんよう、また明日」
 いや、山百合会の範囲では、手抜かりがあるわけではない。私が未熟な分は、祥子さまと令さまが完全に補っている。もちろん祐巳さんと由乃さん、乃梨子もだ。
 なら、環境整備委員会の方か。
ごきげんよう志摩子さん。今日も活動頑張ってくださいませ」
 けれど、改善を求めたいのだったら手紙は具体的に書かれるべきだったし、私に直接渡す意味もなかった。
 ならば……言われたのは、私?
 私の、何が?
ごきげんよう
「あのっ」
 たまりかねて私は、帰りがけの一団に呼びかけた。
「私、最近、何か落ち度のあることがあった?」
 きょとんと目を開いて二回瞬きをした後、私の声に反応した面々はゆっくりと苦笑した。
志摩子さんがお悩みの姿、ずいぶん久しぶりに見ましたわ」
「ええ、本当に」
「何か、気に掛かることがあるんですか」
 それがわからない。だから私は、手紙の文言のままを、口にした。
「私、このままでいいのでしょうか」
「このままでいいのって……」
「何の、進行のこと?」
「進路のことですか? 来年とはいえ、まだ先の話でしょう?」
 耳のつかえが取れた。
 教室の窓、机、人の輪郭が、急に鮮明に像を結んだように感じた。
 ――ああ。
 分かってしまった。意図を。
「ああ、紅薔薇さま黄薔薇さまはもうすぐご卒業ですものね。同じ薔薇さまとしてふとご自分のことも考えたのでしょう?」
志摩子さんは白薔薇さまとして非を打つところがありませんし、成績も優秀、どんな進路でもご活躍できますわ」
「私たちも、あやかりたいですわ」
 シスターへの、夢。
 あの手紙は、やはり私に宛てられたものなのだ。




 問いを発する誰かがいるということは、即ち私を見ている誰かがいるということ。
「あなたなのですか?」
 私は、台座に立つマリア様を見上げた。この学園を見守る白いお姿は、雨の日も、抜けるような空の日も、そして今日のような灰を被せたような空の日も、慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。
 ただ、その笑みが、今は私に胸苦しさを覚えさせる。
 私には夢があった。たとえ家との縁を切ったとしても、神に仕えたいという願いが。
 この学園は、宗教の何たるかを知らねばならないと、諭され進んだ場所。出会う人間は、どんなに欲しても、いつか失ってしまう繋がり。
 偽証を胸に抱え、いつでも飛び出せるよう構えて過ごしていたこの世界は、さまざまな係わり合いを経て、いつしか自分から戻りたくなる巣になっていた。
 重さに意味があったロザリオはその役目を終え、乃梨子の手首ではなく首元に光っている。
 やわらかく暖かい場所は、お姉さまのそばだけでなく、皆といるすべての場所になった。
 キリスト教の勉強も、イエズス様の教えに従うことも、気持ちさえあればどんな場所でも出来るはずだった。
 だけれど、私はいま心から願っている。この学園にいさせて欲しい。ここから離れたくない。みんなと共にいたいと。
 それは修道院に向かう気持ちとは相容れない、自分だけを思う願いだった。
 このままで、いいの?
 ロザリオを渡す時、乃梨子山百合会の皆か、どちらかを選ばなければいけないと錯覚したことがあった。
 遠くない未来に、今度は、必ず選ばなければならない。
 ――このままで、いいの。
 よくない。よくないのだろう。
 このまま過ごし続けたら私は、今度はきっと、ここから飛び立つことを忘れてしまうだろうから。
「……どうすればいいのですか」
 私は目を瞑り、マリア像へ手を合わせた。普段は祈りが頭に浮かぶだけなのに、今日に限ってはなぜか『最後の審判』のそびえるような色彩が思い出された。
 空気の匂いが塗り変えられ、色彩はシスティーナ礼拝堂の壁面へと広がっていく。なぜかその光景には、記憶の中にある人だかりはなく。たった一人が跪いて祈りを捧げていた。

 ――ああ、あれは。
 祈りをしている自分、そのものだ。

 静かだ。
 瞼を開きながら私は、辺りから気配が消えているのに気づいた。
 これだけ人が多い学園でも、時々そんなことが起こる。エアポケットに落ち込んだように、周囲のすべてから自分が切り離されたように感じられるのだ。
 そんなときは、いつも自分の姿が見える。
 足元から広角レンズで見た世界が、視界に広がる。
 並木に囲まれ丸く切りとられた空。それをバックに立ち尽くす、もう一人の私を私が見ている。
 私はこの感覚を知っている。
 ずっと忘れていた、懐かしい――疎外感。
 同じ学園の中なのに、自分だけが薄い膜一つ隔てた向こう側に行ってしまったように思えたのだ。
 かつて私は、これが好きだった。
 心が落ち着いて、学園の誰からも……

「……!」

 背筋の中を、氷に舐められたような悪寒がした。
 私は、途方も無くお気楽な勘違いをしていたのではないか。
 このまま、というのは私のささいな行動ではない。仕事でも、進路でも、ましてや姉妹の事でもない。
 私の存在、そのもの。
 問うてきたのは仲間でも、マリア様でも、イエズス様でもない。
 ――かつて、私が望んだ世界。
 静さまに置いていかれ、泣き出すほど怖れた場所。
 お姉さまが卒業した時、再び望み、今うっすらとベールの向こうで影だけ見せているもの。
 鈍くなった私に、待ちきれずに歩み寄ってきたもの。
 得ることも失うこともない世界。
 私は走った。手加減無しに。逃げるために。走った。
 足を止めたら、その瞬間に飲みこまれるような気がした。
 あの世界に。
 人の消えた、楽園に。




 弾んだ息のまま、私は薔薇の館に辿りついた。
 ドアを閉めるかどうか、一瞬迷った。開いたままならそこから忍び込まれそうで、閉めてしまったら館ごと飲みこまれそうな気がしたからだ。
 けれどもあの世界の顔を見てしまう恐怖が勝り、私は寄りかかるようにして戸を閉めた。
 扉に背をつけひとまずの安堵を漏らすと、酸素不足と体の痛みが襲ってきた。息を吸おうとしても、腕の付け根から差すような痛みが放たれうまくいかない。そういえば去年、静さまに運動不足と笑われたことを思い出す。
 それでも、足を止めるわけにはいかない。ともすれば吊りそうになる足を引き摺って、私は通いなれた上の部屋への移動を再開させた。
 いつもの階段を登るのが辛い。肋骨の内側が針山になったようだ。手すりに掴まったまま、私は自分に悪態をつきたくなった。去年よりさらに体力が落ちている。老猫だって、もう少し優雅にあがれそうなものなのに。
 息を整え切れないままビスケット扉をくぐると、中では今度も先客が紅茶を飲んでいた。祥子さまと令さま。令さまのそばに紅茶の缶があるから、おそらく今日は令さまが入れたのだろう。
「あ、志摩子。いま入れたばっかりだけど志摩子も飲む?」
「息があがっているわよ、何か急ぎの用でもあったの?」
 聞こえるか聞こえないかという声で、いえ、と口にし首を振るだけで私は応えた。まずは息をつきたい。よろよろと、姿を見ずとも情けないと分かる足取りで椅子へ歩み寄った。
 だが、おかしなことに、近づけど近づけど、令さまの入れた紅茶の匂いは一向にしてこなかった。
 ――まさか、もう。
 私は席を素通りし、窓際へ向かった。
 これから誰か来るのが。来ないのが。乃梨子が来るのが。来ないのが。一番恐かった。
 二人に背を向けたまま、私は口を開いた。


紅薔薇さま黄薔薇さま
「どうしたの志摩子
 窓の桟に手をかけたまま私は続ける。とても二人の顔を見たままでなんて話せなかったから。
「望んでいた世界が生まれていたとして、そうしたら、どうなると思いますか」
「は?」
 二人の声が不協和音で重なる。いや、タイミングはばらばらだけれど、親友であるお二人の声はいつも調和して響きあっていたから、変に感じたのは私の心の持ちようなのだろう。
志摩子……全然意味わかんないんだけれど?」
 問いかけ直したのは令さま。
「例えば、小さい時にお菓子の国のお姫様になりたいという夢を持った女の子がいたとします」
 自分の声を聞きながら、私は震えを起こしていた。こんな例え話を用意して話し出した覚えはなかった。覚えの無い言葉が口から澱みなく流れ出している。まるで、台本を用意されたように。
「お菓子の国、ねぇ」
「時が経って、知らないうちにそのお菓子の国がその子の強い願望で生まれてたんです。そうしたら、どうなると思います」
 お菓子の国。そんな甘いものなんかじゃない、私に迫ったものは。
 この世の果て、鏡の中の町、生の絶えた世界。呼んでも叫んでも届かない遠い場所。
 それ以上向かうところも、訪れる人もいないところ。
志摩子、何が言いたいの?」
 祥子さまが苛立たしげな声をあげる。あげてると思いたかった。
 この期に及んでも私は、自分の本当の悩みを言葉にしようとしなかった。全身を締め上げていくような悩みの苦しみを、存在を揺るがされる恐怖を、何も知らない人に、軽々しく扱われることが嫌だったのだ。
「もしお菓子の国に人がいたら、招待状の一つでも出すんじゃない? 姫、国が完成しましたって」
 それを見抜いているのか知らないのか。令さまは本気にも茶化しているようにも聞こえる答えを投げかけてきた。
「招待状を?」
「うん。そして女の子は、お菓子の国と元の世界を選ぶことになるわね」
 あの手紙が、招待状だったならば。
 私はすぐさま内容を理解して、パニックになったかもしれない。あるいは逆に意味が分からず、授業に集中できていたか。
 手にしたあの文面こそ、私を最も揺らめかせ、不安がらせるかたちだった。
 私は言葉を返す。
「女の子は大きくなって、小さい頃の夢は薄れて大切なものが出来たんです。行く気が…いえ、もちろんお菓子も好きなんだけど、それよりもっと大切なものが出来て。状況が変わったんです」
「行かなければいいじゃない」
 祥子さまはにべもない。相談しているのにも関わらず、それが私の癇に障った。
「女の子一人の願いのために、お菓子の国は一生懸命作られて、招待状まで出してくれたんですよ」
「なら、行って真摯に断るか、観念するかじゃない」
「そうすると私は、この世界ではどうなると思います」
「いなくなるわよ」
 ざわり。
 背中から胸、胸から顎が悪寒で震える。
 向こう側に行き、なおかつこの世界にも同時に残ることが不可能であるのなら、確かにいなくなる。簡単なことだ。
 簡単なことだけれど、だからと言って割り切れるわけがなかった。
「大切なものを持ったままその国に行けば。一挙両得だよ?」
 乃梨子とふたりで、人の消えた楽園に?
 祐巳さん、由乃さん、祥子さま、令さま、静さま……お姉さまのいない世界で、乃梨子と二人きりに。
 荒涼とした人のいない世界。これが自分が過去最も大切にしてきたものだと、乃梨子に示す。それはこの世の何とも比べようもない、恥。罪というべき恥だった。
 そんな世界が、私に問いを発してきたと言うのか。
 私は、いまさっき、祐巳さんと由乃さんに助けを求めなかった事実と、その理由に気づいた。
 私は、知られたくなかったのだ。
 親友たちさえ拒む世界を望んでいたことを、愛する彼女たちに見せたくなかったのだ。



 リリアンの高い壁に並行して走る道路。冗談のように車が走っていなかった。
 まばらな人影。
 街路樹の影。
 次に私が認識できた光景はそこからだった。枯れた木々が頬に感じない風に揺らされ、日没前の静けさを際立たせている。
 薔薇の館からどう来たのか覚えていない。ちゃんとスクールコートを着て中身の詰まった鞄を下げてはいる。泣いたり叫んだりしていないことは、喉と眼の状態で分かる。それほどひどい姿は見せなかったようだ。
 ようだったから……大声で泣き出したくなった。
 お父さん、お母さん、お姉さま。祐巳さんのためには駆けつけてくれるのに、どうして私が苦しい時には助けに来てくれないのだろう、ありえないことまで思った。
 あのときの私の願いは真摯だった。盟約だった。
 私はその盟約が何かを知っていて、心底そうなりたいと望んだ。
 その意味を知ろうともせずに。
 バスが低い音を鳴らしながら目の前を通過してゆく。タイヤの転がる振動が靴から吸い込まれ、体内を淡く振るわせていく。
 緋色と茜色と、紫色のグラデーションの掛かった、美しい秋の夕焼け。眩しい太陽をずっと見つめることができるようになり、朝と同じように息が白くなり始める。
 けれども、決して朝と同じにはならない。西の空に浮かぶ太陽はやがて沈み、遊んでいた子供が、学生が、そして大人も外から消えてゆく。
 誰も、それを押し留めることはできない。
 無慈悲に追われるならばまだいい。あの世界は、私の中から生み出されたものなのだ。
 全てのしがらみから解き放たれ、墓地のように静謐な空間は、夢のために作られた夢だった。
 夢を追うことは、あの夢の中に入っていくこと。夢を捨てない限り、あの世界も終わらない。
 夢は、こんなにひとりきりでさびしいものだったのだろうか?
 そんな処に向かって歩んでいるのなら。もう、ここから先へなど進みたくない。前なんてみたくない。
 でも、いま時を止めてしまえば。どこまでも続く、泣き出したいほど赤い夕焼けが空に残るだけ。
 時を戻せば、乃梨子と積み重ねた、温かい時間が消えてゆく。
 進むことも、戻ることも、立ち止まることも出来ない心。
 それは、未来のようだった。
 手紙の差出人はいまどこにいるのだろう。次は何と告げにくるのだろう。
 この世界から突然引き剥がされるのではないか。
 ここではない場所がある不安。
 明確に名前を与えられた感情は、漠然としたまま私の視界を覆っていった。
 宵闇が、私の影を徐々に霞ませてゆくのが、たまらなく怖かった。





 夜通し、思考が堂堂巡りした。
ごきげんよう白薔薇さま!」
 数人の一年生が緊張した面持ちで声をそろえて挨拶する。寝不足の頭に、挨拶は変なリズムを伴って煩わしく聞こえた。
 お菓子の国へ行った女の子は、彼女を知る人にどう思われるだろう。好きなだけお菓子のある世界なんて夢みたい、自分も行きたかった、と羨ましがられるかもしれない。
 でも、女の子の方はどうだろうか。
 いつまでも、夢をかなえた喜びに、神への感謝に包まれていられるのだろうか。誰かとお菓子を分け合い、美味しいねと言い合った記憶を持つ少女は、あり余るお菓子だけでは淋しくないだろうか。
 意識が朦朧とするたび、ここからいなくなってしまうという恐怖で目を覚ました。授業中、一度も注意を受けなかったのに安堵しつつも、既に自分が皆から切り離されてしまったのかと言う不快感を感じた。
 昼食も取る気にもなれなかった。
 代わりに、講堂の裏の桜まで行ってみた。
「どうすればいいの」
 桜は何も答えない。
「どうすればいいのかしら」
 それどころかいつも感じていた、不思議な親近感すら薄れていた。
 その理由が、この木は地に根を張る限り他の世界へ旅立つことは無いからだと気付くと、話し掛けている自分が滑稽に思えて、私は黙ってその場を後にした。



 ――取り殺される。
 比較的冷静に、諦観かもしれないが、私は自分の心身を把握していた。
 手紙を受け取ってから、たった一昼夜でこのありさまだ。手紙の差出人はよほど藤堂志摩子という人間に詳しいのだろう。あれだけ短い文面に、彼女が最も苦しみ、そして最も効果的に破壊される罠を盛り込んだ。
 そこまでわかっていながら、しかし私は誰にも相談できなかった。
 それは愛しい乃梨子ですら。乃梨子は、強い個を持っているけど孤独を望みはしなかった。それが当然なのだ。自ら、世界とそこで生きる人との関係を打ち捨ててしまいたいと願った人間が、どこにいるだろうか。
 いや、たったひとりだけいる。
 佐藤、聖さま
 私の理性ではないものが、たちどころにその名を打ち消す。相談はできない。鏡のようなあの人は、おそらくこの手紙へ同じ感情を有してしまう。お互いの思いに引きずられて、衝動的に直接的な破滅を選びとってしまうかもしれない。
 楽になりたい。大好きな人たちと一緒に幸せなまま蒸発させられてしまいたい。壊れたような生からの逃避を巡らせて、私はいつしか昏い快感を得ていた。
「なあ、もし?」
 不思議なイントネーションで肩を叩かれ、耳の中の声は掻き消された。
「ちょっと尋ねてもええ? 保科栄子って先生、いまどこいるか知らん?」
 私の隣で、細いフレームの奥にある瞳が光っている。見慣れない私服姿から視線を下げていくと、予想通り足には来賓用のスリッパが見えた。
「どのようなご用件でしょうか」
 目の前の女性は、マニュアルじみた私の声に、束ねたお下げ髪をポンとはたいた。
「保科栄子はうちの母さん、うちはその娘の智子」
 相手はポシェットの中から学生証を突き出した。それは学歴というものに疎い私でも、十分に名を知る大学のものだった。
「朝から晩まで保健室いるわー聞いて来たのに、行ったら在室中の札つけたまま鍵かけとるし手紙もおいてへん、ぐーたら大学生がこんな敷居の高いところ呼びつけられるだけでもかなわんのに、ふらふら歩かれたらもうやってられんわぁ、隣の大学ちゃうんやで、さっきからなんぼ呼び止められた思っとるんや」
 ……生で聞くのは初めてだった。早い。
 しばし私は、悩みも忘れて関西の勢いに呆然となった。
 そのことに気づいたのか。保科さまは、んーっと顔を近づけ興味深そうに眺めまわした。
「面くらってるなあんた。……ま、東京のお嬢さま学校に、こんな話し方する奴なんかおらへんやろしなぁ」
「あ、あの」
「あー気してへん。新鮮やろ?」
 勝気に鼻をならしてから、保科さまはもう一度、で知らん? と私に尋ねてきた。
「保健室におられなければ職員室だと思いますけれど……お呼びしましょうか」
「ええよええ、自分で行く。ありがと」
 ほな、と片手を挙げて別れようとした保科さまは、しかし一歩で足を止め、眉根を寄せた顔で振り返った。
「――にしてもあんた顔色悪いで。まるでONEから手紙貰らったようやわぁ」
「え?」
 両腕から背中に鳥肌が立ち上った。
「悩みでもあるんか? こーこーせーは気苦労も多いやろうけど、ストレスは適度に発散せんと」
 手紙。いや、それにもっと奇妙な接頭語がついていた。
 目の前のレンズ越しの瞳が、怪訝そうなモノにはめ替えられる。
「……もしかしてやけど、逆? 『手紙』に心当たりがあるん?」
 頷いていいものか。
 迷う私と対照的に、この方のペースは速かった。
「あんた、急ぎか?」
「いえ…」
「ならちょっとお姉さんにおせっかい焼かせてくれん? うちのは後でええから。この近くにあんま目立たんとこない?」


「……なるほどなぁ」
 人気の無い廊下で、私は、初対面の女性に問われるまま、自分の抱えた悩みを語っていた。
 いや、悩みは聞かなかった。言えるもんでも軽々しくいうもんでもないやろといい、手紙の来た状況と文面だけを問うてきた。そして、それを聞くだけで相手は何らかの得心がいったようだった。
「あの、先ほどこの手紙のことを何とかとおっしゃってましたよね、わんから……」
「ちょっとその手紙、見せてくれん?」
 問いは願いにかき消され、私は言われるままに手紙を渡した。
 思えば、なぜ肌身離さず持ち歩いていたのだろう。
「大変やったろうなぁ…いきなり飛んできて、誰も詳しい中身は教えてくれん、でも不安で不安で仕方ない、うちが声かけなきゃ誰も相手にしてくれん……」
 失くしたくなかった、他人の目に触れさせたくなかったという思いは、もちろんある。
 だが、誰にも知られたくない相談できないと思いながら、心の奥では期待していたのではないか。
 手紙の深いところを知っている人が現れ、この重荷を取り除いてくれることを。
「だから、こうしてしまえばええんよ」
 あ、と言う声を出したときには仕事は既に終わっていた。
 純白の手紙は、不揃いの紙片になってリノリウムの床に撒き散らされた。
 血相を変えてあたしはその破片を拾い集める。何てことを、何てことをしてくれたのだこの人は!
「何をするんですか!」
「問題解決、これでもう悩まんですむやろ?」
 こともなげに言う彼女の目を、私は感情を篭めて睨みつけた。来賓に対する礼儀を思い出せないほど、胸に怒りが渦巻いていた。
「何があるかわからないんですよ!」
「真っ白な封筒に、真っ白な手紙が一通入ってる、せやから何か意味があるように思うんよ。破ってしまえばただの紙のクズやろ」
「ただの、じゃありません!」
 語気が強くなった。自分から生まれた世界とのやりとりを、こうも扱うなんて。
 私の身体がちいさく震えている。きっと怒りのためなのだ。きっと。決して怖がっているわけじゃない。
「――なあ、その破片にも文字は書いとる?」
「は?」
 保科さまは唐突に、意味の分からない問いかけをしてきた。
 馬鹿にしているのだろうかこの人は。
「そのためにわざと大きめに破いたんやけど」
 私は身体を屈め、かき集めた。あわせて10の不揃いのピースは、床の上ですぐに元の長方形に並べ戻すことができた。隙間から見えるリノリウムの色が、修復できない「時間」を示しているようで、また腹が立った。
「……どう? 見える? 見えるんだったらお姉さんにも分かるように、文字をペンでなぞってくれんか?」
 0.4ミリの極細のボールペンの先が、しゃがみこんだ私を指している。
 ペンを持つ彼女の瞳は穏やかで、お姉さまと違う、年上のお姉さんという温かさがあって。
 問題から出てくる答えをもう知っている、先生のような気がした。
「いえ……もう見えないです」
「……な」
 信じられないことだったが、どのピースにも、文字の痕跡はなかった。
 どれほど目を凝らしても、あの薄墨色の文字は影も形もなく。それどころかどんな字体だったかさえ、今では思い出せなかった。
「なーんて、うちも人の受け売りだから偉そなこといえんけどなぁ。うちも貰ったことあるんよ、その手紙」」
「え?」
 私の驚きなど意に介さなかったように、彼女は私に半身を向けた。
「全く同じ。このままでいいの、ってど真ん中に書かれたのな」
 私物のボールペンのキャップを締めると、それを無造作に胸元に放り込む。
「うち、高校生のころはこんなおせっかいやなかった。親の都合で友達から切り離されて東京放り込まれて……絶対大学は向こうに戻ったる思って、最初はガリ勉してた」
 保科さまは、眼鏡を外し、ハンカチでレンズを拭きはじめた。
ガリ勉っちゅうのは学生の敵やから煙たがられたし、イヤガラセもされたわ。けどな、どうせこいつら長くても3年で別れてしまう奴らやって思ってたから、無視しまくってた。逆に愛想振り撒くだけムダって思ってたから誰に対してもつんけんしてた」
「そんなこと……」
「でもおせっかいな奴が一人いてな、頼んでもないのにイヤガラセにキレたりしつこく話し掛けたりしてきて」
 しかも男やで、と保科さまは笑った。眼鏡を外したのに、そのお顔が、さっきより大人びて見える。
「そいつに付き合ってて肩の力抜いってたら、急にウケが良くなってそれなりに楽しなってきおって。そのうち、ここにいてもええかな……って思えてきたんよ。そんな時、手紙が来た」
 聞いていて、不思議な気分だった。目標のために人付き合いを避けたのも同じ、おせっかい焼きの男性を乃梨子と読み替えればほとんど状況は同じというのに、話の中身に親近感は殆ど沸いていなかった。
 なのに、この学園の誰よりも、私が言いたいこと、知りたいことが分かっているという確信もあった。
「手紙は、どこから」
「わからん、帰ったら机の上にポンって乗っかってて。捨ててしまえばよかったんやけど、うち、それができんかった。なんや今更って思いながら、震えたわ」
 目を伏せたまま、眼鏡をかけ直しつつ、答えを返す彼女。
「――昔の自分が今のうち見てたら、どう思うやろなって。痛いとこ突かれたんちゃうかって、思ってしまった」
 私は手を握り締めた。
 そうだ、そうなのだ。手紙の差出人は、過去の自分だったのだ。
 だから私は、これほどの感情を持ち続けられたのだ。
 誰よりも私を知る人間の言葉だからこそ、これほどまでに胸に突き刺さったのだ。
「自分のことやし何言いたいかすぐ気づいたもん。楽しいことが永遠に続くわけやないんやで、のんべんだらりと毎日過ごして目標下げてダメ人間になっていく、それでええんか!? ええわけない、でもだからって誰とも話さん、むっつりしてる昔の自分に戻るほども割り切れんし。メチャクチャ悩んだわ……」
「そして」
 保科さま、いえ智子さんは、乗り越えた。私を笑いながら救える素敵な女子大生に。
「ひとりじゃあかんって思って相談したねん。浩之いうてな。したらあいつ、あんたにやったように目の前でいきなりびりびりっ! て。うち食って掛かったよ、何すんねんボケ! ってそしたらあいつ呆れた顔でな『委員長、こんなのただの不幸の手紙だろ?って』……あはは」
 智子さんは心の底からおかしそうに口元とお腹を押さえた。突然のことで表情を作れずにいる私を放って置いたままで。
「腹立って『なんやあんた、家の机に置いてあった言ったやないか、親が置いたって言いたいんか!? それ以前にここに書いてある字ぃも見えんのか!』って一発張り飛ばしたんよ。でも浩之まだ言うねん、『俺には見えない。なぞって書いてくれよって』。馬鹿にされてる思ったけど、こっちも意地になって繋ぎなおして書こう思ったら、全然見えんの。その瞬間はっと覚めた」
 そこまで語って、セリフ通りにはっとした表情をした智子さんは、ばつの悪そうに眼鏡をかけ直した。
「あかん、つい熱ぅなってもた。堪忍な」
「いえ」
 私は先ほどまでの態度を思い出し恥じ入っていた。
 手をあげるなんてことはよもやないとは思うが、私にも、確実に冷静さはなかった。
「――結局な、自分の問題なんよ」
 軽く指で目元を押さえると、保科さんは私に視線を合わせ直した。
「いきなり連れてかずに、聞いてくれるってことは『うちは無理強いせんよ』そう言うとるんよ。だから思い切って言ってやったらええねん。うちはこれでええ! って」
 そう言うと腰に手を当て、智子さんは胸を張った。
「そもそも20前の子供が、一度で正解の選択肢選ぼうとするのが土台無理なんや。それをもっとガキの自分に責められるいわれなんかない! 何も知らんくせにな」
 智子さんは勝気に鼻を鳴らした。
「ウチだって彼氏のために進路変えたけど、それで後悔はしてへ……あ、彼氏はいるん?」
「いいえ。でも分かります、そのぐらい大事な妹がいるんです」
「そかそか。ならその妹さん大事にせんとな」
 この学校でいう「妹」を、智子さんはきっと知らないだろう。それでもいい。
「夢は膨らせるもんで、変わっていくもん。今あるものをがりがり削るのは夢ちゃう。現実失いそうなら夢の方修正していくべきやで。現実あっての夢、そう思わん?」
「ええ。私は前の自分よりきっと、いい人間になっているはずですから」
 それだけのことが、彼女の言葉の価値を減じてしまうなど、できないのだから。
「よし、もー大丈夫やな。なんかしょーもない過去語りまでやってまったけど、あんたの顔が晴れてよかったわぁ……あ、あかん、あんたの名前聞くの忘れとったわ」
志摩子です、藤堂、志摩子
 額に手をやる智子さんへ、私は山百合会の仲間にするように微笑んでみせる。
「藤堂さん、ほな、がんばりや」
 満足げに頷いて智子さんは今度こそ、と片手をあげて歩みだした。
 ――風のような人。
 それも春一番のような、とても強い風を吹かす人。
 そんなことを思う心地よさに包まれながら、私はその背を見送った。




「……子さん? 志摩子さん?」
「ひゃうっ!?」
 突然の呼びかけに、物を詰まらせたような声をあげ、私は背筋をこわばらせた。
 恐る恐る振り向くと、乃梨子が両手で胸を押さえている。
「お、脅かすつもりは無かったんだ、ごめんね。昨日志摩子さんの様子が変だって聞いたからすごく心配してたんだ。それにしてもここで何してたの、見たって人がいたから探しに来たんだけど、今出て行ったあの方は志摩子さんのお知り合い?」
 緊張を押し隠すように、乃梨子は一気に用件をまくし立てた。私は、そんな乃梨子を落ち着かせるよう、胸の前で重ねられた手を、自分の左手で剥がしてあげる。
「ちょっとね、外部の方とお話してたのよ。保科先生を探しておられたの」
「そうなんだ」
「心配かけてごめんなさいね、もう大丈夫よ」
 その一言で、目の前に大きな花がひとつ開いた。
 私は何を迷っていたのだろう。
 あの冬の日にケーキを食べながら当たり前のようにお姉さまがいたように。
 乃梨子は私がどこに行こうとも、探し出してくれる。
 ふたりでいれば、ひとりじゃない。ふたりを取り込もうとすれば、あの世界は世界自身でなくなってしまう。
 私には、乃梨子がいる。乃梨子が必要なのだ。
 あの日、もし乃梨子山百合会を選べといわれたら。
 苦しんだ末、きっと未来をかけて、私は乃梨子を選び取ったはずなのだから。
「なら、今日も薔薇の館にいくよね」
「ええ」
 望むままに歩いてみよう。
 もし夢が変わってしまったとしても。
 智子さんのように幸せに笑えるかもしれないし。
「じゃ、一緒に行こう」
 それこそが、私に示された導きなのかもしれないのだから。
「……志摩子さんも、いいんだっ、て自信を持って返事してほしいな」
「え?」
「いこ、志摩子さん! みんな待ってるよ」


 私の手を引くその袖口から。
 白い紙片が一枚、ひらりと離れていった。