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あゆがまだ好きだからぼく勉で例えてみた(後編)

趣旨や、これまでのお話は前編をご覧ください。では続きです。

<恋、そして……>

(お母さんは旅行中、ということで、彼女は何日かこの家に一緒に泊まりました。主人公の叔母と従妹と、まるで本当の家族のようにご飯を作り、それを囲んだりして、それはそれは楽しく。しかし、彼女はある夜、主人公に「家に帰る」と口にします)

成幸「もう寝るのに、ずっとカチューシャしてるんだな」
文乃「これね。大切なものだから。成幸くんがくれたんだよ?」
成幸「そうだっけ……ところで帰ったら、誰か戻ってくるのか」
文乃「ううん、わたしひとり。わたしのお母さんは、二度と帰ってこないから」
成幸「――叔母さんは、たぶん嘘に気づいてるぞ」
文乃「うん。みんな、優しいんだよ……あれ?」
成幸「……古橋?」
文乃「おかしいな、わたし、どうして泣いて……」

(文乃はどうだったのかぜひ尋ねたいところですが、彼女・あゆにとって家族の団らんは、羨望であると同時に、かつての幸せだった日々とそれに連なる悲しい記憶との邂逅でした。そして彼女は家を離れるとき、送る主人公にこう問いかけます)

文乃「成幸くんは…目の前で大切な人を失ったこと……ある?」
成幸「……」
文乃「あるんだね」

(成幸くんにこのやり取りをさせると、ダブルミーニングになりますが……取り戻しつつある記憶とともにふたりの仲は恋愛として、急接近します。以降、こんなやり取りをするぐらいですから)

文乃「もし、わたしの初恋の相手が、成幸くんだったとしたら……そうしたら、成幸くんはどうする?」
成幸『すぐに取り消してもらう』
文乃「どうして?」
成幸『初恋は、実らないっていうからな…』
文乃「成幸くん……もしかしてすっごく恥ずかしいこと言ってる?」

理珠「(ギロ)」 うるか「(じわ)」 あすみ「(ジト)」 真冬「(ゴゴゴ)」 水希「(殺)」
(……あの、ヒロインズの皆さん、劇に割り込まないでいただけます?)

文乃「探し物、もしかしたら見つからない方がいいのかも」

(主人公と仲が深まった彼女は、ずっと探していたものの捜索について聞かれ「きっと幸せだと必要ない物なんだよ」と呟きます)

(少しだけ話の順序を入れ替え、夢の回想編を挟んで、その正体をお伝えします)


<タイムカプセル>
成幸「もうすっかり暗いな」
文乃「そうだね」
成幸「……そういえば、明日で、お別れだな」
文乃「……そうだね、成幸くん、『転校』だね」

(7年前の冬休みの終わり、主人公が地元に帰る前日。二人は『学校』で遊び、すっかり暗くなっていました。その帰り道、ふたりは口の大きな、少し変わった形の瓶を拾います)

文乃「成幸くんは、タイムカプセルって知ってるかな?」
成幸「瓶はいいとして、何を入れるんだ?」
文乃「これ。この天使さん」

(文乃が提案したのは、彼女が大事に持っていた「お願いの叶う天使の人形」でした)

成幸「まだお願いが残ってるだろ?」
文乃「わたしは、ふたつ叶えてもらったから十分だよ。残りのひとつは、未来の自分…もしかしたら他の誰かのために…送ってあげたいんだよ」
成幸「叶えるのは俺なんだけど……その人見つかるかな」

(ためらう主人公に、彼女はこう言って微笑みかけます)

文乃『大丈夫。きっと、見つかるよ。この人形を必要とするひとがいれば、かならず……』

(ふたりは協力して、その即席タイムカプセルを地中に隠します)

成幸「……明日も俺、帰る前にちょっとだけ会いたい」
文乃「じゃ、明日も待ち合わせは『学校』でね!」



<ひび割れる重奏曲>
成幸「そういえば、どんな学校なんだ古橋の私服通学の学校って」

(明くる日、主人公は、彼女の通う学校を案内してくれと提案します。お互いの放課後、昔のように駅のベンチで待ち合わせた二人は、彼女の学校に向かいます)

成幸「ぜい……ぜい、こんな、山の中なの古橋の学校って?」
文乃「……そうだよ」

(不安げな主人公、そして、彼女。その道はいとこから「この先にはなにもないはずだよ」と言われた、森の中でした)

成幸「……ここ?」

(行き着いた先は、プレイヤーは何度も回想で見ている場所。森の広場でした。しかし大きな違いがあります)

文乃「そんな……嘘」

(そこに大樹はなく、あるのは切り株だけ。そして)

文乃「わたし、きょうもここに来たはずなのに。そうだよ鞄!……ない、おかしいよなんで空っぽなの? 嘘だよ、わたし、ここにいちゃいけないの?」

(泣きながら、混乱した叫び声をあげて、彼女は駆け出します)


成幸「おい古橋っ!!」


(慌てて追いかけた主人公が、再び彼女の姿を認めたのは、陽も完全に落ちた世界。降りしきる雪の中、彼女は街路樹の根元の凍土を、素手で掘り起こしていました)

成幸「やめろよ! 明日道具持ってきて、ちゃんと探せよ!!」

(舞台は、雪のない背景が1カットもない極寒の街。凍った地面をやわらかい女の子の手で掘れば、血が滲みます。なのに彼女はその手を止めようとしません。そして、主人公を見上げた彼女の口から、まったく彼女らしくないシリアスな台詞が飛び出します)

文乃『…ダメ、だよ…。だって、夜は明けないかもしれないよ』
成幸「……ふるはし?」

(その言葉を残し、彼女は忽然と姿を消します)

(翌日、彼女を探そうとして彼は愕然とします。いつも偶然彼女が現れてくれるから、何かあれば、いつも約束して会っていたから、連絡先も、住まいも、何も彼女のことを知らなかったことに)

(言いしれようのない不安に駆られた主人公は、知り合いを集め、彼女が掘っていた付近を徹底的に掘り返します)

大森「なんかあったぞ、これじゃないか唯我!」

(捜索により、タイムカプセルに埋めたあの天使の人形は、ついに現実の世界に戻りました。同時に、7年の歳月が経ったことを、否応なく突きつけます)

うるか「でも羽は取れてるわ汚れるわ、これボロボロだね。あたし、直してあげるよ」

(その夜、主人公は最後の記憶に到達します。そして……それを忘れていた理由にも)



<7年前の『真実』>
成幸「(喜んでもらえるかな、プレゼント)」

(それは、地元の街に帰る日の出来事でした。数少ないお小遣いで買ったプレゼントを手に、主人公は『学校』へ向かいます)

文乃「成幸くん!」

(いつもの枝の上で、主人公を見下ろす彼女。その姿を認めて、お互い手を振り返します)

(その瞬間、木の枝を揺らすほどの強い風が吹きました)

文乃「あ!」



(その瞬間、ストップモーションのように、彼女は、木から、落ち。
 ――響いた鈍い音とともに、世界が、その色を変えます)



文乃「……あはは……おちちゃった、わたし。木登り、とくいだったのに」
成幸「喋るな! すぐ病院に連れてくから!」
文乃「さっきまではすごく痛かったけど……でもいまはね、いたくないよ……」
成幸「痛くないんだったら、絶対に大丈夫だ!」
文乃「…あれ…… 体が… 動かないよ…」
成幸「俺が、連れていってやるから! だから、動かなくたっていいから!」
文乃「…でも…動けないと…遊べないね…」
成幸「……っ」
文乃「… 成幸くん……また…わたしと遊んでくれる…?」

(なぜ、痛くないのか。明かされないまま、BGM『夢の跡』を背に、白い雪が、彼女の頭から流れる血で溶け落ちていきます)

成幸「もちろん! ほら、いつもの指切りだ!」
文乃『約束……だよ』
成幸「ああ、これで」
文乃「……」
成幸「ほら、お前もちゃんとしないと……」
文乃「……」
成幸「指切りに、ならない……だろ」

(7年前の失われていた記憶。それは、初恋の女の子が目の前で喪われていく、子供には受け止めきれない、あまりに辛すぎる思い出でした)

(彼の手から、プレゼントが零れ落ちます。その中身は、カチューシャ。雪と共に、紅く染まった白いリボン代わりに、7年後の彼女がいつも身に着けていた、赤いカチューシャ……)













成幸「……」

(目を覚ます主人公。いま、すべてが明らかになり、浮かぶのはこれまでの日々。渡せなかったはずのプレゼントをつけて、一緒に過ごした彼女は、ただの幻だった? それとも……)

うるか「……起きた、成幸? これ、直した。ほとんどゼロから作り直しになったけどさ」
成幸「ありがとう……ちょっと俺、出かけてくる」

(迷いを断ち切るように、彼はいとこが直してくれた天使の人形を手に、土曜の昼下がりから、外へ出ます)

文乃『やっぱり待ってた人が来てくれることが一番嬉しいよ。それだけで、今まで待ってて本当によかったって思えるもん』
成幸「……そうだな」

(いつか駅のベンチで待ち合わせた時、彼女が口にしていた言葉を思い出しながら、彼はふたりの『学校』――いまは、切り株だけになった森の広場で、ひたすら待ち続けます)



 真っ赤な空を見上げて、ただじっと待つ。
 たったふたりの生徒。
 その、もうひとりの姿を、俺は待っていた。
 夕焼けの赤が通り過ぎて、やがて夜が来る。
 風に揺れる木々のざわめきを遠くに聞きながら、
 時間の流れる音を近くに感じながら…。
 すでに、この世には存在しない人を、待ち続ける。
 これ以上、滑稽なことはなかった。



(以上、原作より――7年間待った彼女の気持ちを追体験しようというかのように、ひたすら待ち続けます)

(「待ち合わせは、学校」。7年越しの約束を、もう一度果たすために )



<『最後のお願い』>
(そこで、突然場面は、家に戻ります)

文乃「成幸くん!」
成幸「わ、な、なんで古橋が家に!?」
文乃「なんでって、成幸くん、わたしもこの家の一員じゃない!」
成幸「あ……そうだったな」
文乃「今日はね、これから、クッキーを作るんだよっ!」
成幸「あ、ああ……」
文乃「何その顔。きょうはうるかちゃんにちゃんと作り方習うから大丈夫だよ。できたら食べてね!」
成幸「うん、まあ、それなら……安心かな」
文乃「言質、とったからね!」

(会話は文乃と成幸にアレンジしてますが……この流れで、突然こんなやり取りがはじまる意味を、想像してください。そして声は遠ざかり……)






成幸「……だいぶ、時間経っちゃったな」





(冬の中で最も寒さの際立つ、1月の末の、日曜日。肌を切る寒さを際立たせるような、橙色の黄昏時。 主人公は、しばし辛すぎる現実から幸せな幻想の世界に逃れていました。現実へ還った彼は、天使の人形を抱え、ひとり呟きます)

成幸『…俺は、今でもお前のこと好きだぞ』
文乃「――わたしもだよ、成幸くん」

(背後からした声。それは、ずっと待ち望んでいた――決して還ってくるはずのない、大好きな彼女の声でした)

成幸「……遅いぞ」
文乃「今日は学校お休みだよ、日曜日だもん」
成幸「そう、だったな……そうだ、ほらこれ」
文乃「探し物……見つけてくれたんだね」
成幸「ああ、だからお別れの前に、せめて俺に、最後の願いを叶えさせてくれ」

(主人公は、彼女の探し物……お願いが一つだけ残った、あの天使の人形を渡します。一瞬彼女は考え込み、そして飛び切りの笑顔を浮かべて、向き直ります)

文乃『それでは、ボクの最後のお願いですっ』
成幸「(……古橋? どうして今になって一人称を……?)」

(もしかしたら皆さんも、そうとは知らず、どこかで見聞きしたことがあるかもしれませんね。それでは『最後のお願い』です)












 ……ボクのこと、忘れてください…
 ボクなんて、最初からいなかったんだって…
 そう… 思ってください…











成幸「本当に……それでいいのか」
文乃「……」
成幸「古橋のお願いは、本当に俺に忘れてもらうことなのか?」
文乃「うぐっ、わたしのことわすれ、だめっ、なりゆきくん、わたしこれいじょうはできないっ」
成幸「……!」
文乃「わたし、同じ場面なら、きっとおんなじことを言うと思う……だから、たとえ劇でも、それでも成幸くんに言うのは嫌なのっ、辛いのっ」
成幸「……」
文乃「ごめん、なさいっ……あの頃成幸くんに出会ってたら、お母さんの星に手を伸ばしたくて、木に登っていたら……わたしが、わたしがあゆちゃんになっていたかもしれないって、そう、思ったら……っ」

(……すごく失礼とは思いつつも、文乃のことを知った時、あゆとの共通点の多さに、驚きました。母親を亡くしたけど、今は元気いっぱい。食いしん坊だけど料理は下手、左利きで、変な口癖があって……)

(そして何より、文乃の口癖「言質、取ったからね」は、あゆの台詞「約束、だよ」と、置き換えてしまえるぐらい、意味が一致します)

(もちろん、どれだけ似ているところがあろうとも、月宮あゆ月宮あゆ、古橋文乃は古橋文乃、です。容姿も、賢さも、当然ストーリーもまるで違う。上記であげた共通点も、令和まであゆが好きな私だから見えた幻覚でしょう)

(でも、それでも……1つ目の願いで「わたしを忘れないで」と願ったうえで、この「最後のお願い」を、心から口にしそうなヒロインに「出会った」と思ってしまったんです。「最後まで笑ってる強さ」を、知っているヒロイン。うるかルートで自分の気持ちを閉じ込め笑顔で送り出した、あの笑顔を見て )

あゆ「――文乃さん、代わるね」
祐一「唯我だっけか。彼女のこと、見ててやれよ」


(――では、続きは本当のキャストとやりとりでどうぞ)


あゆ「だって…ボク… もうお願いなんてないもんっ」
あゆ「…本当は、もう二度と食べられないはずだった、たい焼き…いっぱい食べられたもん…」
あゆ「だから…」
あゆ「だか…ら…」
……。
あゆ「ボク、ホントは」
あゆ「もう1回…祐一君と、たい焼き食べたいよ…」
あゆ「もっと、祐一君と一緒にいたいよ…」
あゆ「こんなお願い…いじわる、かな?」
あゆ「ボク、いじわる、かな…」
……。
あゆ「…祐一君…」
あゆ「ボクの体、まだあったかいかな…」
祐一「当たり前だ」
あゆ「…よかった」

(お前は生きているんだから、温かくて当たり前だ。そんな願いをこめた次の瞬間、そこには初めから何もなかったかのように、彼女の姿は消えてしまいます。それでも主人公の祐一は、これだけは間違いなく言えると、断言します)


――最後に見たあゆは、笑顔だった、と。



<エピローグ>
(季節は巡り、エピローグの幕が上がります)

秋子「祐一さん、今朝のニュースで言っていたんですけど、知ってますか?」
祐一「なんですか?」
秋子「昔、この街に立っていた大きな木のこと。昔…その木に登って遊んでいた子供が落ちて…同じような事故が起きるといけないからって、切られたんですけど…」

(さも世間話のように会話をはじめる、彼の叔母・水瀬秋子さん)

秋子「その時に、木の上から落ちた女の子…7年間戻らなかった意識が、今朝戻ったって…」

(つい先日『35歳の少女』ってTVドラマがありましたね。そうです、彼女は、ギリギリでこの世からは失われていなかったのです)

秋子「その名前が、確か……」

(そう、私が好きなKanonは、おとぎ話なのです。この√では、7年間昏睡していたあゆが本当に望んだお願い……そう「ずっと一緒にいたい」を天使の人形が叶えた、そんな幸せなおとぎ話)


<結びにかえて>
あゆ「このあと本当は、ボクが祐一君と待ち合わせるシーンがあるんだけど、文乃さんには似合わないからカットするね」
祐一「なんだよ、あれをからかうのが面白いのに」
あゆ「床屋で髪をバッサリ切られたって面白くないよっ!」
祐一「まあ、さすがにアレをやってもらうわけにいかないからなぁ」

(小学生で時が止まった彼女が『美容院』を知らなかったがために、散髪に失敗した、つまり、眠っていた7年分の知識をこれから得ていく困難をチラ見せしつつ、でもきっと幸せになれるよと歩き出すのが、彼女・あゆのお話のラストです)

成幸「……大丈夫か、古橋」
文乃「うん……ごめん、まだ少しぼおっとしてる」

(なお、京都アニメーション様のアニメ版では、全ヒロインのラストをつなげたうえで、もっともっと印象的なラストになってます。機会を作って、ぜひご覧くださいね!)

「文乃さんお疲れさま。ボクのたい焼き、食べる?」
「……ありがとう……ん、ちょっとしょっぱい」
「それはね、涙の味だよ……なぁんてね」
「でも、おいしい」
「……ふふふ」
「……えへへ、ありがとう、あゆちゃん」

本来、絶対に出会うことはないふたりです。
けれど、もし会えたならなんかとっても仲良くなってくれそうで。
ぼくたちは勉強ができない』も、誰かの「思い出に還る物語」になってくれるように祈りつつ。

以上、長いツイートに、お付き合いありがとうございました。

親指姫は眠り姫の森の端で[X]を求める(ぼくたちは勉強ができないSS)

雪はこころにふるんだって、素敵な言い回しですよね。
文庫本から顔を上げて発せられたそのセリフに、白いカーディガンを羽織った彼女が、一段ときれいになった気がした。
うん。お待たせりっちゃん、と、わたしは脱いだコートをたたみながら、向かい側に腰を下ろす。
12月のはじめ、表通りに面したカフェで、久しぶりにわたしたちは向かい合う。



~親指姫は眠り姫の森の端で[X]を求める~



「成幸くんへ、 クリスマスプレゼント何をあげたらいいかって?」
注文した飲み物がテーブルに置かれて早々、切り出された彼女の言葉をわたしは繰り返す。
彼女が、相談したいことがあるんですと連絡をくれたのは昨日のこと。
だったらさっそく会おうよと、背伸びして都心の表通りのカフェを指定したのはわたしだった。
でも、スマホではなく文庫本を片手に、先に座って待っていたのは、二重の意味で予想外。
難しいのはまだ無理なので、と中身を見せてくれたけれど、その行動自体、驚きの対象だった。
その驚きも冷めやらぬままに、出てきた相談内容に再度、私は面食らう。
しぱしぱ瞬きを繰り返すわたしに、ええ、とにこやかに頷いて、彼女はココアの入ったマグを取り上げた。
「最初のクリスマスなので、思い出になるものを贈りたくて」
「成幸くんが好きなわたしに、それ、聞いちゃうんだ」
「だからこそ、です。ぜひ相談にのってほしくて」
中身をひとくち飲み込み、喉を動かしたりっちゃんは全く悪びれず、ふんすと鼻を鳴らした。
その仕草が、動物さんみたいでとてもかわいらしい。
「残酷なことするなぁとか、考えないんだ」
「ええ。文乃はちゃんと相談に乗ってくれるって信じてます。もっとも、いまから『ゲーム』に挑戦するなら止めませんが」
「言うようになったねりっちゃん?」
「それは相手が文乃だからです」
「むか。やっぱり悔しいから、りっちゃんのこと刺しちゃおうっかな」
「文乃にそうされるなら諦めます。でも、幽霊になっても成幸さんは渡しませんけど」
「りっちゃんのいじわる」
「そうですね、イジワルです」
わたしはラテの泡をすすって、りっちゃんと顔を見合わせて笑い合う。
並べたのは物騒な言葉ばかりだけど、もちろん、本気じゃないよって伝えながらわたしは喋っている。りっちゃんも、それを分かったうえでの応戦だ。
りっちゃんだからこそ、このやりとりが楽しいし、成幸くんを好きなわたしだけど、彼女を心から応援したいなって思える。
彼女自身も。昔だったらこんなやり取り、絶対できなかっただろう。
1年前の同じころ、彼女は、自分の頭と恋心がケンカしたことに、ものすごく罪悪感を覚えて、泣いた。
それから、ずっと。
成幸くんを振り向かせようと頑張った時間が、叶った恋が、彼女をすごく強く、心豊かにしたんだと思う。わたしが何をしようと、何をされようと、動かされないぐらい。
ごめんなさいおふたりに遠慮はできませんでしたと報告してくれた時から、悔しいけど、本当にカッコいいなぁって思う。
「う~ん、そうだねぇ」
口調を元に戻したわたしは、天井の空気としばし相談する。大きなファンがくるくる回っている。いつも思うけど、なんであれ、真下が寒くならないんだろう。
「――お洋服とか、どうかな」
「それも考えたのですが、サイズとか、色が似合うのとか気になりますし。それは一緒に選びたいのです」
「アクセサリーは……するタイプじゃないしねぇ」
「飾るもの、も置き場所に困りそうですし。私自身、シンプルなお部屋が好きですし」
触れることができて、残るものを選びたいのかなとわたしは想像する。
手料理とかは当日するのかもしれないけれど、彼女の中では対象外と思ったほうがよさそうだ。
スポーツをするならそれに関連したもの、というところだが、彼はそういうタイプじゃないし。音楽も、ゲームもするとは聞かない。電子機器も扱いは苦手そうだし、趣味らしい趣味が、ない人ともいえる。
とはいえ、彼女からのプレゼントなのに現金なんて論外だ。
となると。
「本、はどうかな」
「本、ですか」
二人で同じところに読点とアクセントを置いて、私たちは提案を確かめ合う。
「……より、好みがわかりません」
恥ずかしそうにりっちゃんはまつ毛をふさぎ、かぶりを振る。
その様子はしゅんとした小動物みたいで、同い年の友達とは思えない。思わずぎゅっとしてかいぐりかいぐりしたくなる。紗和子ちゃんは、本当に慧眼の持ち主だ。
「ううん、文字の本じゃなくてね、目できれいな本かな。写真集とか、イラスト集とか、絵本とか」
もう少しその様子を見ていたかったけど、いじめるつもりはないので、わたしは言葉を付け足す。わたし自身が贈ったことはない。でも、メッセージカードの代わりになるそういうミニブックは、鹿島さんから受け取ったことがある。
「たくさんあるから、りっちゃんの好みを伝える意味でも、いいんじゃないかな」
「なんか、楽しそうに聞こえてきました」
「よかったら、このまま買いにいこうよ」
顔をほころばせた彼女に、わたしは自分で満足して、ラテを一度にふたくち、口の中で転がす。
とろみを帯びたそれは、はっきりと、甘い味がする。
幸せそうな彼女を見ながら飲むこの味は、お気に入りのひとつになりそうだ。



スイーツは大事な用事を済ませてから、で意見は一致。
読んでいた本のことだけを尋ねてカップを空にして、わたしたちは並んで店を出た。
通りを歩きだして数分もしないうちに、吹き付けるビル風にわたしは肩をすくめる。ブーツに合わせたけど、今日は実用重視のコートでもよかったかもしれない。
本当は立ち話じゃなんだけど、おやつの時間まで待ちきれず、わたしはさっき一番聞きたかったことを尋ねることにした。
「成幸くんとは、普段どんなデートをしてるの?」
隣のりっちゃんは、ふわふわの襟周りに顔を埋めて考え込む。
「そうですね……動物がいるところが多いですね」
ペットショップとか。動物園とか。そうそう最近は猫カフェがいち推しです! と、素手のこぶしを握って力説する。
何をするの、と聞いたら、おやつをあげたりするのです、猫アイスを出すとガジガジする子がいて私はその子が一推しですと、勢い込んで話したのだから相当ハマっているのだろう。確かに、小柄で丸顔の彼女は、耳とひげを足したら仲間になれそうだ。
興味が抑えきれず、話す側でスマホでお店を見てみると、思った以上にお洒落な場所だった。
「猫の目をじっと見てはいけないとか、猫のあいさつは鼻をつんとするので、人間だと指を伸ばすといいんですよとか、店員さんからたくさん学びました」
わたしは、いたずら好きのフミのことを思い出す。お父さんがあんなんじゃなければ、家にいてもいいかなって、思うけど。
「あ、動物と言えば、秋に行った大きな牧場も楽しかったです。どこまでも広々としてて、気持ち良かったです」
「へえ、どっちかが運転したの?」
「いいえ、バスで行きました。成幸さんも免許は取りたそうですけど、学校にも車にも、お金かかりますし」
「確かに」
「もこもこの羊に触ったりとか、牛乳しぼりとかしたんですが、みんな動物って熱いぐらいあったかいんですね。知りませんでした」
牧場も、確かにふたりに似合うかもしれない。りっちゃん、牛さんに近いとこあるものね。
「文乃、いま失礼なこと考えましたよね?」
今度はさすがにむっとした顔でのぞきこんできたので、わたしはあいまいに笑って場を流す。いけないいけない、わたしたちの間でこのことだけは禁句だよ。
「他は……ネットで評価が高いうどん屋さんを食べ歩くとか」
「敵情視察、だね」
やっぱりうちが一番ですね、と人差し指を唇に当てたところで、りっちゃんは、あ、と短い呟きを漏らして、首をすくめる。
「すみません、一方的に話すばっかりで」
「ううん、いいんだよ。わたしが聞いたんだし、逆にわたし話すことがないし」
わたしは仰ぐように手を振る。
実際、りっちゃんの話を聞くのは楽しかった。
もっと胸が疼くのかと思っていたけれど、全然そんなことはなくて、二人がこんな穏やかなデートを重ねていることが素直に嬉しかった。
(ちゃんとデートを組み立てられるようになっていて、お姉さんもうれしいよ、成幸くん)
親心、いやこの場合は姉心か。そういったら失礼だけれど、彼女だけでなく、彼の成長も感じられたことに安心したというか。
「そんなことありません。専門の勉強の話も聞きたいです。文字ばかり見ていると、得意分野が無性に恋しくなることもあります」
「数学ね。最近はわたしパソコンばっかり見てるから、ちょっと視力が心配」
そもそも地学は、文系科目のように覚えることも多い分野だ。計算自体は、結構機械任せだったりする。
勉強もさることながら、今のわたしは星を追う方法を模索中。地上から見るか、宇宙に飛ばすか。直接見るのか、電波で見るのか。夜空を眺めるのと、学問として追いかける差を、夢を壊さずに埋める作業をしているのかもしれない。
「文乃は、おしゃれな眼鏡をかけても似合うと思いますよ」
そう眼鏡の奥から目をほころばせた彼女は、本当にかわいらしくて。
わたしが彼氏だったらなぁ、と、変なことを考えずにはいられないのだった。



こっちこっち。
エレベーターから降りたりっちゃんの腕を、わたしは引っ張っていく。
外国絵本ではとんがりすぎかなと思い、わたしは輸入品を扱う専門店ではなく、和書を取り扱う大きな本屋さんを案内した。
一等地の目抜き通りに立つビルの、上の階。お店の名前を確かめて、ふたりで開きっぱなしのドアを通る。
「メッセージを伝えるための本だから、難しいことは書いていない本がいいかな」
りっちゃんの背丈ほどの棚が並ぶ絵本のコーナーに、対象とする子供の姿はまばらだ。贈る側の、大人の女性の方が多い。
「猫の出てくる絵本でしぼってみようか」
さっきのテンションを思い出しながら、やや誘導ぎみに、本の背表紙に手をかける。
「猫は、ふたりとも好きです」
「さすがにアニメ絵より、リアル目のタッチがいいかもね」
平置きのノラネコぐんだんの新刊をどかして、いくつか本を並べて見せる。大人も読める絵本だと数は限られてくるけど、それでもこの店では、絞り込み条件としてはまだまだ多すぎる。
「例えば『100万回生きたねこ』って有名だけど、ちょっと暗いし、ふたりのイメージにも合わないよね」
「クリスマスの絵本は、どうですか」
店内のクリスマスソングにつられたのか、りっちゃんが特設コーナーを指さす。
「確かにきれいな本が多いんだけど、それだとクリスマス以外だと、なかなか読み返さないよね」
わたしはやわらかく否定する。
プレゼントは、クリスマスツリーとは違う。勝手だけど、できればいつもふたりのすぐそばにあった方がいいと思う。
大きなトートを下げた女性が、すれ違いながら、わたしたちのやり取りを不思議そうに眺めていた。
うん、奇妙な組み合わせと思っているだろうな。
読み聞かせサークルなら本は図書館で選ぶだろうし、まさか彼氏へのプレゼント選びとその付き添いだとは、すぐに想像できないだろう。
そう思ったら、ちょっとしたドラマみたいで、楽しくなってきた。
「こうしてみると、絵本って、本当にたくさんあるんですね」
「そうだね。毎月のように出てくるんだもんね」
「名前だけ知っててても、読んでない本もあります」
「うん。そう考えるとすごいよね本って。大事にしてたら、いつか、ふたりの子供にだって読ませてあげられるよ」
「……ふ、ふみの」
りっちゃんが真っ赤になって、大慌てで手を振る。
あ、なんか余計な意味まで取ったな。
「気が早いかもしれないけどね。初めてのクリスマスプレゼントが、それだけ残るなんて思ったら素敵じゃない?」
言いながらわたしは、あの本のタイトルを思い出す。
天の光はすべて星。
あの作品は、短編SF作品の書き手が書いた数少ない長編だと、調べて知った。中身もとても硬派で、星が好きな女性が自ら手に取るには、不思議すぎるジャンルの本なのだ。
――もしかして、根っからの数学者も、SFは好きだったのかな。その推理は、まだ一度も話したことはないけれど。
そんな物思いの間に、りっちゃんが、おおきな目をした猫の絵本を取った。
「新聞でタイトル見たことあるよ、その本」
「ちょっと、読んでみますね」
本との出会いは、フィーリングだと思う。
最初のページで、その子はオスだと分かったけど、多分この本におちつくだろうな、とわたしは直感的に思った。
読み終わるまでの間、窓の外に目を向ける。
まだ明るい昼間の街を、店内の点滅するイルミネーションと、窓からのぞく赤と緑のカラーリングが、冬らしく染めている。
ビルの上から黒いケーブルに導かれ、金色の規則正しい星の並びが、瞬きを繰り返す。
――わたしだけの星、いつ見つかるかな、お母さん。
雲が多めの空にわたしは呟く。隣にいる、なりたいわたしの気配を、暖房が誘う眠気と共に心地よく感じながら。



「ありがとうございます」
ふたりでは、少し広い、紗和子とのルームシェアの部屋には、フローリングに不釣り合いな、床置きタイプのこたつがある。
世の中にはテーブル型もあるのに、3人ともなんか床に座ると落ち着いてしまうので、このタイプで準備されたのだった。
そのこたつの、たった1面だけを、今は二人で貸し切っている。
邪魔しないから明日は好きにやって、と実家に戻った紗和子に心でお礼を言って、私は遠慮なく、成幸さんに甘えている。
いまは、プレゼントの箱を開けて、中身をかざしていたところ。
成幸さんのプレゼントは、雪の結晶のように輝くイヤリングだった。
その光に、しばし私は茫然と魅せられる。
「私は、これです」
赤い紙にマスコットのサンタが躍る、レトロな包装紙にくるんだプレゼントを、私は改めて差し出す。
包みは、爪でセロテープまで丁寧に解かれ、中から出てきた、なまえのないねこ。という猫が成幸さんを見つめる。
黒っぽい縞と茶色。調べたらこれは、きじとら模様というらしい。
「絵本、なんだ」
「はいっ」
「いま、読んでもいい?」
私は、頷き、成幸さんの身体にくっつく。
この子は、名前のない野良猫だ。
街の中を、お店の中を、他の猫を紹介しながら、ひとりで歩き回る。
「みんなかわいいね」
「はいっ」
私はその間、飼い主に甘える猫のように、ぴたり身を寄せて、彼が筋を追うのをしばらく楽しむ。
「……そこです。それが、伝えたくて」
最後の少し前、この子の名前が出てくる直前のところで、私は声を挟む。
「この話の趣旨とは少し違いますが、それが、伝えたくて。この本にしました」
あなたに出会う前までは、自分の名前のことなんか、考えなかった。
父の鬱陶しさを感じる呼び方を除けば、好きとも、嫌いとも感じなかった。私が主人公だったなら、きっと他の猫のそばを興味なく通るだけの、無言のページが続いただろう。
でも、去年、この日を迎えるころ。自分が抱く気持ちが分かったとき、私が欲したのはこの猫と同じ。
愛を込めて、名前を呼んでくれるひとだったのだ。
「私を呼んでください。成幸さん」
成幸さんが、りず、と私の名前を呼ぶ。
もっとあなたの声を聴きたいのに、たった二文字の名前だから、その響きはあっという間に消えてしまう。
すき、と同じ、い、と、うの音が付くのは好きだ。でも、あいしてる、と同じように、本当は、あなたの口が大きく動くところが見たい。
それは叶わないから、せめて、たくさん呼んでほしい。
私があなたを呼ぶ間に、あなたは私を二度も呼べるのだから。たくさん、たくさん呼んでほしい。
その無言のお願いを聞き届けて。
絵本に倣って、おいで理珠、と成幸さんが私を呼ぶ。
はい、と私は彼のお腹に頭を預ける。
私の手料理が収まった、少し膨らんだお腹が、あたたかくて心地いい。
フレームがたわむのも構わず、幸せに任せて、私は猫のように頬をこすりつける。
「ドキドキする方法は、まだまだあるのですね。知りませんでした」
くしゃくしゃ、と髪を撫でられるに任せて、私は、目を閉じて成幸さんの息遣いに耳を澄ませる。
成幸さんは、あいしてるよりず、と言って、優しく私に口づけをしてくれた。

Yestaday,Once more(マリア様がみてる・聖(×祐巳)SS)

※過去の自作の再掲


 ……ずっと変わらないよと抱きしめては

 何もかも手に入れたと思っていたよ。



《Yestaday,Once more》



「えいやっ」
 ベッドを持ち上げると、フローリングの床の上に、リボンが挟まっていた。
 深い緑の、リリアンカラーというべき色の、少し癖のついたリボン。
 祐巳ちゃんが落としていったモノに違いない。
 そこまで掃除を不精していたわけじゃないけれど、残っているなんて不思議な感じだ。このときは、髪をとめずに帰ったんだろうか。
 いやいや、そんなことあるはずがない。寝るときに外したとしたって、帰りに無くて困っていたら、家を逆さまにしたって私は探したはずだから。
 あまりに渡していて、いつなのかは定かではないけれど、あげたプレゼントの中には髪留めもあったはずだ。プレゼントの方をそのままつけて帰った時があったんだろう。
 私は持ち上げた本来の目的も忘れて、そのままベッドをうっちゃり、リボンを手に取る。
 手に取って見詰めた瞬間、リボンで髪を留めていた祐巳ちゃんの、斜め後ろ姿が脳裏をよぎる。
 そしてその姿は、当たり前のように振り返り、私に微笑みかける。
「似合いますか、聖さま?」
 なんて、音声までついて、微笑みかけてくる。
 やれやれ。
 1年も前に別れた祐巳ちゃんを、こんなにも鮮明に思い出せてしまうとは。
 私は床に座り込み、ワンルームのこの部屋を見渡した。
 白い壁の、ごく平凡な一人暮らしの部屋。
 この部屋を借りて一人暮らしを始めたのは、大学に行くと決断するより前から決めていたことだった。
 お金も貯めた。バイトも探した。最後は半ば飛び出すように家を出たんだった。
 大学生になった私は、めぐり合った祐巳ちゃんを恋人にした。
 行き来は、もっぱら、祐巳ちゃんがこの部屋にやって来た。
 祐巳ちゃんには、この小さな部屋がよく似合った。テレビの前にちょこんと座り、何かをパクパク食べる。
 時折、思考に沈んでしまう私の手を引いて、ベッドにもぐり込む。眠っている間は、手をグーにしている、そんな癖まで見つけてしまった。
 二年生も終わりに近づく頃、私たちが一緒にこの部屋で過ごす時間は長くなった。
 ユニットバスで髪を切るのにチャレンジしてみたり。夏にやり残した線香花火を、ベランダで興じてみたり。
 夜眠る前には、祐巳ちゃんが私の腕の中にいて。
 朝に目覚めると、祐巳ちゃんの寝息が私の耳元をくすぐる。
 なんてコトない日々だった。
 将来に何の責任もまだ何も負っていない、学生同士カップルの多くが過ごすそれと変わりない日々だった。
 私は、リボンをじっと見つめる。
 そう、このリリアンカラーは、リボンとしては不向きだ。黒い髪の持ち主がつけたならば、埋もれてしまう。
 けれども、祐巳ちゃんの明るい茶色の髪には、本当によく似合っていた。祐巳ちゃんのために特別にあつらえたんじゃないかと思えてしまうぐらいに、そう、似合っていた。
 私はリボンを持ったまま、目を覆う。
 さっきまで掃除をしていた手からは、水っぽく、埃っぽい匂いがした。
 ――祐巳ちゃんの残り香があったなら。
「……」
 今日。私はこの部屋を出ようとしている。実家に戻るコトになったのだ。
 そうそう、ベッドを持ち上げたのは、このシングルベッドの下の衣装ケースを運ぶためだった。
 そう。当たり前みたいに、自然にこの部屋を出て行くはずだったんだけど。
 白い壁の前に、佇む祐巳ちゃんの幻が見える。
 狭いキッチンで、レパートリーを増やそうと苦闘している祐巳ちゃんの横顔が見える。
 ベランダから、布団を干しながら『マリア様の心』を口ずさむ祐巳ちゃんの歌声が聞こえてくる。
 やれやれ、と私は笑ってしまう。
 この狭い部屋で祐巳ちゃんと過ごした時間は、私が一人でいた時間よりも短いはずなのに。
 この部屋での思い出といえば、祐巳ちゃん、君のコトばかりが浮かんでくるよ。
 なんてことなくて、長くは続かなかった恋だったけど。
 君を、憶えてるよ。
 たぶん、君が思ってるよりもずっと正確に。
 きっと、ずっと大切に。
 私はリボンを窓辺に置いた。そうそう、どうしても角部屋がほしくて、この出窓が一押しになって、ここを借りたんだっけ。
 本当は、壁だらけの部屋だって気にならなかったんだ。
 それは祐巳ちゃん、君を招く時のことを、考えていたからなんだよ。両面壁の部屋じゃ息が詰まるだろうから、ね。
 荷物が散らばり、やがて空っぽになっていく部屋。
 それでもやっぱり祐巳ちゃんの影を残していて、私はまた少し笑ってしまった。
 手伝ってくれるというカトーさんに日取りを教えずに、こんな思いして一人で引っ越すのも。
 ただこの幻を、ずっと見ていたかったせいかもしれない。
「さてと……おや」
 口の開いた段ボール箱のそばに転がるのは、もう一周も残っていないガムテープの残骸。
 仕方ない、追加買いしてこようか。
 笑った後、私は静かに靴を履き、ドアを閉めた。


 私たちの部屋のドアを、そっと閉めた。

non title~中島美嘉 “will” からの構成~(マリア様がみてる・蓉子SS)

 あの頃って、僕達は、夜の空を信じてた。




《non title ~中島美嘉 “will” からの構成~》




 あの頃って私は、夜の空を信じてた。
 橙色の上から重ねられる藍色が濃くなり、乳白色の月が昇る。
 外を動くものがいなくなって静かになっていく世界は、まさに魔法がかかっていそうな、そんな何かに満ちていた。
 子供の頃は、おばけがでる魔法が。
 少し大きくなった頃は何か夢のような事が起こる魔法が。
 日付が変わるまで起きているようになってからは、何もかも特別で感傷的に見せる魔法が。
 6限が終わった講義棟の外で、私は未だ帰らずにいた。
 空から降り続く雨は、鞄の中の折り畳み傘で避けられるのに、出入口の壁に寄りかかったまま、ただどこかを見ていた。
 iPodのイヤホンを外し、腫れたような感覚の耳を揉むと、電話の声が甦ってくるような気がした。



『――で、来年の3月12日は空けておくと吉』
「来年の3月12日? ずいぶんとまた先の話ね」
『いやぁ早いのよ、結婚式の予約って』
 久しぶりの江利子の電話の内容は、唐突だった。
 電話を持ったまましばし、唖然となった。
『やだ、蓉子ともあろうものが唖然としちゃって。意外だわ』
「自分に関係ないことだもん知らないわよ結婚式事情なんて」
『蓉子、縁なさそうなの?』
「イヤミ? そんな仲になる人がいたらとっくに白状してるわ」
『回りに誰か一人くらいいないの? 友達とか』
「――いないわよ、あいにく」
『なんか珍しい……』
 純粋に興味深そうに江利子は言った。
「意外って、まだ私たち学生よ? 」
『でももう四年でしょ。周りは結構多いけど? 卒業を気に決断する人。くっつくだけじゃなくて別れるほうもね』
「……江利子、」
『目を閉じて見る夢よりも、目を開いてる時の幸せがいいなと思ったの』
「後悔しない?」
『後悔? 確かに私、部活も進学も適当に決めてるように蓉子には見えたかもしれないけど、ちゃんと責任は取ってるわよ」
「――ごめん、変なこと言ったわ。許して」
『まぁ相談の一つもしなかったのは謝るわ。けど、決めるのは全部自分の意思だから。今度は桁違いに重かったから、大変だった』
「私がまだ子供だってことかな……」
『なんか変な感じ、蓉子に説教垂れるなんて。でも、私たち今いくつよ?』
「おかげさまで、ひと月前に22」
『でしょ? 高校のあの時はまだ笑い話だったけどさ、蓉子も、そろそろ本気になって考えてもいいんじゃない?』



 四年生。
 間違いなくあと一年たたずに私はこの大学を卒業する。
 内定もとったし、司法試験もする気はない。もちろん単位を残すようなヘマもない。
 22歳の自分。
 私、一人だ。
 ポケットから、緑色に透き通る固まりを取り出し、何十度となく繰り返した動作でいじる。
「幸せはともかく」
 ぽ。
「しわ寄せなら私のところにいっぱい集まってくるわよ……」
 口元を隠すように、火をつける。
 大学へ来て覚えたのなんて、これだけか。
 指に挟んだ細い煙草に向けて、私は呟いた。
 お酒は一人じゃ淋しくて飲めないから、代わりにこうして煙草をつけるのだ。
 と言っても、ただ持ってるだけ。
 わざわざ害のある副流煙を目一杯吸って、服に煙の臭いをつけるために、私は高い小箱を買い続けているのだ。
 飲み会で冗談半分に渡されて口元まで運んだ時、友達から『仕草がかっこいいって』言われたから。
 だから、いまだにやめられないでいる。
 今日こそは、と口まで運んで吸い口にピンクの色をつけながらも、いつも私の息はそこで止まる。
 ためらいが、その続きをさせてくれない。
 この煙を吸ってしまったら。
 あの、マリア様の庭の空気をもう吸えなくなる気がして。
 我ながらばかだな、って思う。
 自分じゃその姿を見られないって言うのに、他人映りを気にしてるなんて。


 ずっと誰かに頼られてきた生活が遠い昔のことに感じる。
 今だってゼミも、卒論も頼られるけど、でも。
 ――ここには、妹はいない。好きだった人はいない。親友もいない。
 私は小笠原祥子の姉であるけれど、祥子の隣にいたわけじゃない。
 手を引いたけれど、腕を組む間柄じゃなかった。
 私のお姉さまも「お婆さま」も、妹やその「孫」に深い情をかける人じゃなかった。
 もっとあっさりしていた。
 私のお姉さまは、私が祥子と諍いを起こしたからと言ってリリアンまで飛び込んできたりはしないだろう。
 ましてや、妹と想いを遂げられるかなんて、思い悩んだりはしない。
 私は、どこまでも淋しかったんだろう。
 淋しい。淋しくてたまらない。

 恋が、したい。

 ふと、自分に恋人ができたら、と想像してみることがある。
 心も身体も結ばれたいなんて大それて思うわけじゃなく、なんてことない日常を共有したいと願う自分がいる。
 楽しくおしゃべりしたり、一緒に買い物へ行ったり、TVを見たり。
 普段自分が送っている日常に、互いに想い合える人がいたとしたら、と想像してしまうのだ。
 江利子のように。
 聖のように。
 ――祥子の、ように。

 恋がしたい、寂しくて仕方ない。

 こんな自分の情けなさに泣きたくなってくるけど、泣くことも出来ない。
 感情を表に出すのが苦手で、上手くコントロールすることも出来ない。
 今日も、喜怒哀楽のどの感情とも云えぬ感情を抱きながら、
 同じ生活を作業としてこなしている自分がいる。
 私、これからどうなるのかな。
 ――多分、ずっと、こうなんだろうな……。



 その日は、森が燃えているように見えたのを覚えてる。
 暗青色の空と白い空気。時折ねずみ色に光る雨。
 山向こうのグラウンドにある夜間照明は今日も灯されていて。
 オレンジ色の光が、霧雨の夜で煙る空気に拡散して、火事のような光景を作り出していた。
 構内をまばらな帰宅者たちが、次々と闇に塗りつぶされた色の傘を開いていく。
 それは、珍しくない、この大学の夜の風景だった。
 けれども、その夜だけは。
 誰かが仕掛けたように、燃えているように、見えた……。


※過去の自作の再掲

ミス・アンダスタンディング(マリア様がみてる・??SS)

※過去の自作の再掲
※推奨:『パラソルをさして』付近まで読了



「同学年じゃ姉妹になれないのかなぁ」
 と、由乃さんが急にそんなことを言い出した。


《 ミス・アンダスタンディング 》


「双子だって生まれた順で姉妹になるんだし、同学年って言ったって厳密には同い年じゃない。だから、同学年にも上下はつけられると思うのよね」
由乃さん、誕生日で厳密に区分しろって言いたいの?」
「違うわよ、姉っぽい方が姉になればいいってだけの話。学校の中だけだもの、自分よりいい子とか敵わないなぁと思った相手とかを『お姉さま』って仰いだっていいじゃない? 年の話は学年なんて関係ないって言うために出しただけよ」
「うーん、でも、やっぱり苦しいと思うよ」
「どうしてよ」
「スールってもともと、全ての『上級生』が全ての『下級生』に『リリアンの校風』を教えて導いていくっていう制度だもん。ロザリオの授受をして特定の誰か一人を作るなんて、ある意味おまけみたいなもんだし」
「――分かってるんだけどねぇ」
 由乃さんはペンをくるくるくると連続で回して、凄く不満げな顔をして言った。
「でもさ、いまリリアンでそんな模範的な形の姉妹ってあるの?」



 スールと姉妹の違いってなんだろう。
 カトリックだから、神に仕えるシスターと混同しないようにだろうけど、そもそも何故フランス語なのだろう。
 試しにドイツ語で引いてみるとシュヴェスター。なるほど、これならスールの方が言いやすい。
 けれどそれ以前に、どうしてこの関係を『姉妹』なんて呼ぶのだろう。
 本当の姉妹のように教え導くとはいうけれど、実際本当の姉妹なら、姉は妹にどう接するものだろうか。
 どの姉妹なら、本当の姉妹であってもおかしくないだろう。
 独断と偏見だけど、血の繋がった姉妹という意味なら、話を言い出した黄薔薇姉妹のところが最も近いと思う。
 リリアンの中には、本当の姉妹同士で契りを結んだケースだってあっただろうけれど、従姉妹同士のこの二人ほどそれっぽく見えるとは思えない。



由乃、そんなに誰かの姉になりたいの? 祐巳ちゃん? それとも志摩子?」
「お姉さま、そんなんじゃありません。ただよくも知らない一年生を捕まえるよりは、身近にいてよく分かっている相手を妹にしたほうがいいんじゃないかと思っただけです」
「よく知らないのは、由乃が一年生にちゃんと接してないからじゃない?」
「お生憎様。薔薇の館という敷居の高いところで仕事をしていると、会える一年生なんて乃梨子ちゃんくらいですから」
「ここだけじゃないでしょ。由乃は剣道部だって入ってるじゃない、そこで探せば…」
「だから剣道部の中じゃダメなの、もう知らないっ、令ちゃんのばか!」



 令さまを間に挟んだ江利子さまとの三人姉妹。
 本当の三人姉妹も、真ん中がこんなに大変なのかは、『姉妹』の成り立ちと同じくらい、今だもって謎のままだ。
 そこからいくと白薔薇姉妹に似合う言葉は……同志。
 みんなが持たない、口にできないハンディを抱えているから、日々を過ごしていくために欲しい仲間。
 ハンディの重さも方向性も違うけれど、先代白薔薇さま聖さま志摩子さんの関係もそんな感じだった。



「――お姉さま、由乃さまの妹になりたいですか?」
「なってもいいけど……ちょっと大変そうね。乃梨子は?」
「私も同じかなぁ、っと、同じです。私の思うに瞳子とかなんか、由乃さまにはあってると思うんですけど」
「そうかしら。それはちょっと違う気がするわね」
「どうしてです?」
「何となく、よ。――スールって、他の人が見たときに、似てないと思われる人とのほうがうまくいくと思うの、きっと」



 感じだった……だろうか。
 ふと、閃いた。
 学校が学校だけに。相手が相手だけに。
 こんな言い方が許されるのかは分からないところだけど、
『はぐれ者たちがつるんでいる』
 なんて表現をあてたほうがしっくりこないだろうか。
 聖さま乃梨子ちゃんは苦笑して納得しそうだけれど、こう言われたら志摩子さんはどんな顔をするだろう?
 最後、紅薔薇姉妹は、教師と教え子のよう。
 ある意味、一番正しく『スール』の意味を理解し実行している、と思う。
 年上の何でも知っているお姉さまが、手取り足取り教えているようで、実は教え子の妹から実に多くのことを教えられているのだ。



「はい黄薔薇姉妹を『本当の姉妹』、白薔薇姉妹を『同志』だと思われているのは分かりました。それで、ここから何をおっしゃいたいんですかお姉さまは?」
「うーん……授業中この話ふと思い出してね、今の私と瞳子だったら回りはどう見てるのかなーって聞きたくなったの」
「はぁ? 珍しくミルクホールまで呼び出されるから何事かと思っていましたのに、長話してたったそれだけですか?」
「それだけって、重要なことじゃない。ねえねえどう思う? 私たち姉妹って、回りからはどう思われてるかな?」
「何を期待されてるのか知らないですけど、お姉さまが祥子お姉さまの妹でなければ、学園の他のスールと何も変わりません。そもそもスールになったかさえ怪しいですわ!」
「そんな、いきなりむげに言わなくたって……」
「ならスターの追っかけ同士が、たまたま仲良くなってしまった。そんなところですわ」
「うー、ぜんぜん可愛くない」
「それで結構です。ロマンスを求めるなら、もう少しお姉さまらしく振舞えるようになってからにしてくださいませ」
「ひどい――追っかけっていうなら、今は祥子さまより瞳子の方を追いかけたい気持ちなのに……」
「ちょ、ちょっと祐巳さま?」
「お姉さま、よ。瞳子……」
「し、知りませんわそんなこと! ね、ねね熱でもあられるのではありませんことでしょうか?」
「……ふふー、なんだかんだで、やっぱり私のこと気にしてくれてるんだ」
「!?」
「だって瞳子があんまりにもひどい事言うんだもん。ね、これでちょっとはドキッとしてくれた?」
「――そ、それで、か、からかったおつもりなんですか! いい加減にしてくださいっ!!」



 一度は妹として、一度は姉として。
 スール宣言を片手に私に会いに来た祐巳さんの顔が忘れられない。
 姉とも、妹とも、最初は何も共通点を持たないかに見えたひとりの少女が、英雄的行為を成し遂げた。
 しばらくの間、人々は食堂や教室でその話題を口にしながら、いつか自分もと最良の夢に思いを馳せたのだった。



「……そうか。スールの契りを、『告白』なんて考えなければ抜け出せたのか――」



 他人が遠慮するステディな関係、なんて生々しさを嫌がって避けていたというのに。
 私の定まるところを知らない血は。
 スールというものになら、もしかしたら安住の地を見つけられたかもしれなかったのだ。

 しかし、私はもう引き返せなくなっていた。
 紅薔薇姉妹の口論は続いていた。
 私はまた、二人に向かってシャッターを切るのだった。