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あの日聞いた[X]の裏側をぼくたちはまだ知らない(成幸・文乃の小ネタ!)

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――だから文乃さ、ときどき「重いよね、ごめんね」って俺に謝るんだけど、いやいや、俺の方がたいがいじゃないかって思うんだよ。
例えばこないだ、大森と小林と3人で久しぶりに飲みに行くって時もさ、

「よし小林も揃ったし、んじゃ行くか!」
「ん? あ、ごめん大森。店で合流するから!」
「あぁ成ちゃん、野辺山通信だね」
「ノベヤマ?」
国立天文台の観測所がある場所だよ」
「……ああ! なんだ、もったいぶらずに彼女の古橋からって言えよ唯我!」
「もう行ったよ」
「うぉい!!」

着信画面を見たとたん、二人には悪いけど、近くのオフィスビルに走りこんで、柱にもたれてスマホに耳を当てて。

「成幸くんきょうはねきょうはね! 初めてあの一番おっきい45メートルの電波望遠鏡を自分で動かしたの! 地面もぐるぐる回るし、あの大きな観測面、真上にも向くんだよ!」
「でっかいパラボナアンテナみたいなのだよね? 大変そうだな」
「それが動かすのは簡単! 葉月ちゃんや和樹くんでもできるよ! もちろんちゃんと観測のためにセットするのは難しいんだけどね。今晩、やっと今晩、自分の研究で使える番なんだよっ。成幸くんいまは?」
「小林と大森と、これから飲みに、さ」
「あ、そうだったよね! じゃ、ゆっくりお話しは……できないよね」
「ううん、今日は直接話せて、よかった。こっちから時間見て掛けられればいいんだけどさ」
「自由時間、不規則だから。電源いれた時に履歴があると申し訳ないから、わたしから、かけさせてほしいの。逆に毎日、変な時間にかけちゃったりして、申し訳ないなって思ってるよ。成幸くんだって、成幸くんの都合があるのに」
「こっちこそごめん、出れないときもあって。せめてメッセージだけでも、自由にやりとりできたらいいんだけどな」
「できないんだよね……前に言った通り、ここでの観測に電波は大敵だから、スマホもパソコンも、無線のものはみんなだめなの。研究棟の休憩室にも電子レンジは置かないぐらいだし」
「え、そこまで?」
「言ってなかったっけ?」
「ああ、本当に徹底してるんだな……」
「うんうん、だからお夜食食べたいときはね、いっつも大変なんだよっ、やっぱり歩ける範囲には畑とか農場ばっかりでコンビニなんてなかったし、いまも夜は本当に真っ暗だし」
「そっちは、もうそんなに真っ暗?」
「うん、もう日は沈んでる。やっぱり車の免許取っとくんだったよ……あ、そうそう車って言えばね、今日面白いの見たんだよ! 車みたいに大きな金属のミルク缶が載った車があってへくちっ!」
「ちょっと文乃、カゼ!?」
「寒かっただけ。高原だから周りはまだ雪ばっかりで、きょうの気温は真冬並みなんだって」

待たせている友達がいるのに、とりとめもなく、何気ないことを話し続けて。

「……ほんとうはさ、テレビ電話で文乃の顔も、みたいんだ」
「いまも敷地の外に出てかけているから……あんまりお洒落な格好じゃ、ないもん。あと、見えるのにすぐに会えないと思ったら、よけい寂しくて我慢できなくなっちゃう」
「大丈夫、離れていても、気持ちはいつもそばにいるよ」
「……ふふ、成幸くん、あの歌みたい」
「歌?」
「すれーちがう、まいにちが、ふえてゆくけれどー、おたがいのきもちはい・つ・も、そばにいるよ……知らない?」
「ううん。でも、文乃が歌う声、可愛い。もっと聞きたい」
「え、は、恥ずかしいよ……」
「敷地の外ってことは、周りに誰もいないんだよね? 聞きたいな」
「…… ふたーりあえなくても、へいきだなんて、つよがりい・う・け・ど、ためいきまじりね」
「あぁ、あの歌か! それなら、ゆっくりだったら、一緒に歌えそう」
「うん、じゃ……成幸くんも、ね」

そのまま、ふたりで電話越しに、

 降り積もるさびしさに 負けてしまいそうで
 ただひとり 不安な日々を過ごしてても
 大丈夫だよって 肩をたたいて
 あなたは笑顔で 元気をくれるね
 たとえ離れていても その言葉があるから 心から幸せと 言える不思議だね
 淡い雪がわたしの ひそかな想い込めて
 純白のアルバムの ページ 染めてくれる

ワンコーラス、外でデュエットしちゃったりして。

「ごめんね、せっかく楽しく始める前にお邪魔するような電話しちゃって。たいしたこと、お話しできてないし」
「そんなこと。文乃の声が聞けて、うれしかった」
「わたしも、だよ――今回は期間が決まってるけど、遠距離恋愛の人たちは、毎日、こんな気持ちなのかな。切ないよね」
「うん。会いたい。でも待ってるよ文乃」
「うん――じゃあちょっと早いし、わたしはこのあと起きてるんだけど……おやすみ、成幸くん」

そのテンションのまま、合流したりしてさ。

「~♪」
「乾杯待たせて鼻歌とは、いいご身分だな唯我!」
「ご、ゴメンゴメンっ、つい! お待たせふたりとも」
「まぁ、彼女がいたら当然だよね、優先順位間違えないの、偉いよ成ちゃん 」
「うるせーぞ、嫌味か小林! 待ってる間に聞いたぞ唯我、彼女、長野の村にカンヅメだから、遠距離恋愛中とか言ってるって!?」
「ま、まぁそうだろ」
「調べたら清里のちょっと上だろ!? 全然往復でいけるだろ、会いに行けよガンガン!」
「それはそうだけど……文乃にとっての研究は、仕事みたいもんだからさ。あんまり邪魔は、したくないんだ」
「真面目な成ちゃんらしいね。ところでさっきの歌、もっかい歌ってもらえない?」
「え、 あなたは笑顔で、元気をくれるねって」
「成ちゃんにしては珍しいチョイスだね」
「ついさっき、文乃が電話でうたってくれたから、ふたりで一緒に、つい」
「CMで使われてる、すれ違う毎日が増えていくけれど、って奴か?」
「そう、それだよ!」
「……唯我? その歌、彼女が歌うのは、縁起良くないぞ」
「どうした大森? 急に真顔になって」
「……大森が知ってるのは意外だったけどね、うん、飲む前でよかったと思うよ」
「唯我、これ、貸しにしとくからな!」
「え、え?」
「―—社会勉強も勉強だよ。教えてあげるから、その後はちょこ~っと頑張りなよ? 成ちゃん」

なのに、二人が何を気にしたか教えられたら、感謝もそこそこに、いてもたってもいられなくなって。
いろいろ手を尽くして、翌朝になったらもう俺、

「古橋さん、お疲れ様でしたっ」
「ありがと~。あー、お外の空気おいしい~。もうお腹ぺっこぺこだよ~」
「いっぱい休んでくださいね。あと、それからちょっと……(さっきから、望遠鏡じゃなくて、ずっとこの研究棟見てる人がいるんです、古橋さん、傍を通る時は気を付けてくださいね)」
「(え、ど、どの人?)」
「(あの人です、あの若い男の人)」
「……な、成幸くんっ!?」

長野の、単線だけが通るその村まで、飛んで行っていたんだ。
研究者姿のままびっくりした文乃の顔を見たら、もうそれだけで俺、なんか泣きそうになっちゃって。

「ほ、本物だよねっ成幸くん!? なしてこげなところに?」
「いや……うん、昨日の歌のことで」
「え?」
「あの曲、『WHITE ALBUM』のこと、文乃は、結構知ってる?」
「成幸くんも知ってると思うけど、歌詞がいまのわたしたち……プチ遠距離恋愛を応援してもらってる気がして、好きで」
「うん、俺もそう思った。あの歌ってカバーされてるけど、もともと、あるドラマの劇中歌だったみたいで」
「うん」
「昨日、あの後教えてもらったんだけど。そのドラマで歌う子……仕事で忙しくて会えない間に、他の子に彼氏を取られちゃう、そういう役回りなんだって」
「!!」
「俺みたいに誰かに教えられたら、文乃、不安になるかなって思って。それに、もし……万が一知っていて歌ってくれたんだとしたら、ものすごく不安な気持ちを、俺に伝えたかったのかもって。それで」
「それで……ここまで?」
「すぐに連絡もできないし、不安なままあの後過ごしてたらどうしようって思ったら……いやごめん、俺の方が、連絡が来るまでひとりで抱えきれなくて。こんなことで、文乃にとっては、職場みたいなここに来ちゃうなんて、正直重いし、迷惑だよな、本当にごめん」

キョドって一方的に喋りまくる俺に、文乃も泣きそうな顔で笑ってくれて、

「……ううん、ぜんぜん。成幸くん以外の誰かに言われて知ったらわたし、きっと不安で不安で、ずっと研究、手につかなかったと思う」
「うん」
「ありがとう、成幸くん。会えて、うれしい」
「文乃」
「だから、ぎゅうってして」
「う、うん」
「いまのお話聞かされて成幸くん見てたら、わたし、もうガマンできない。ぎゅうってして」
「……文乃」
「なあに」
「ぐりぐりしてくれるのは、嬉しいんだけど」
「だめ。 成幸くんの、せいだからね。もう少しこのままでいさせて」
「……たぶんだけど俺たち、すっごく、観測されてるよな」
「!!」

その日から、俺と、文乃の口癖「うぺぇっ!?」は、一躍有名になって……って、頼まれたから話したのに、目の前で降参されても、俺も困るってば。

Marriage Blue(みずいろ・片瀬雪希×シスタープリンセス・可憐SS)

※要:みずいろ日和シナリオ
※推奨:Sister Princess 可憐非血縁



 長く伸びたチケット。
 その一番下をちぎって、係員さんに手渡す。

(なにあの子?)
(どうしてひとりなんだろ?)

 黄色いチェーンがかけられ、けたたましくベルが鳴る。
 北風がびゅんびゅんと鳴る、寒い夜。
 大きな観覧車のイルミネーションが、綺麗だった。
 ごうん、と大きな音を立てて、コーヒーカップが動き出す。
 いっせいに巻き起こる悲鳴と歓声。
 ゆっくりと回りだす光と人の波。
 そして、一つだけ静かな、私だけのカップ

(ふられたのかしら?)

 席の真ん中に備え付けられたハンドル。
 回りの声を聞かないように、
 思いっきり、回した……。




――Marriage Blue――




 明らかに早く回る私のカップは、さらに周囲の目を引いていく。
 強くなる風の音で、何を言っているのかは聞こえないけれど、周りの視線が身体を舐めていくのを感じる。
 美しかった夜景も光の同心円になって、もう何も見えなくなった。
 私、何してるんだろう。
 そう思った時。
 光の環を遮るように、目に、人影が映った。
 カップの中、私と同じように、たった一人だけで座っている女の子。
 川の流れに乗る木の葉のように、視界を右から左へと、顔が分かるくらい、ゆっくりと流れていった。
 思わず座席に膝立ちになって、その姿を追いかけた。
 でも回転が速すぎて、見つけそうになるたび、私の身体は遠ざかってゆく。
 何度目かのあと、ようやく気づいてハンドルに手をかけた。
 でも、勢いのついたハンドルは、私の手を弾き返した。


 止めるのがすこし遅かったみたいだ。まだ目の前の世界が斜めに動き続けている。
 額を押さえて気持ち悪さに耐えながら、遊具の出口から続く鉄製の階段を下っていく。
 相変わらず、カップルたちの視線がたったひとりの私に集まる。
 このまま倒れて、冷たくなっていくのも楽しいかな……。
 耳を腫らす風の冷たさを感じながら、自嘲的にそんなことを思う。
 でも思うだけで、私はまた行き先も決まらないまま、歩き出す。
 嘘。
 私の目も足も、さっきカップで見た女の子を探していた。
 だから、彼女は、見つかった。
 髪を三つ編みにしたその子は、チェックのコートへ白い息を吐きかけて、少し足を止めていた。
 私と違って視線が集まることもなく、その顔は決して笑ってはいなかったけど、何かに傷ついた様子じゃなかった。
 その横顔が、不意にこちらを見る。
 私を捉えた大きな瞳。
 その顔は、横顔から想像していたよりずっと幼く見えた。
 合ってしまった視線を外すことができずに、私は、立ち尽くしてしまう。
 私たちの真上。
 噛みつくような音と悲鳴をあげて、ジェットコースターが通り過ぎた。
「………?」
「あなたこそ?」
 その最中、ほとんど同時に相手と交し合った言葉。
 ほとんど何も聞こえなかったけれど、きっと気持ちは、一緒。
 示し合わせたように、お互い歩み寄って、誘うように手を差し出す。
「女の子二人なら、不思議には思われませんよね」
 先に手を取った女の子は、私を隣へ引き寄せると耳元でそう、囁いた。
「それなら、お互い、ちゃん付けで呼び合おっか。私は、雪希。あなたは?」
「わたし、可憐です。…それじゃいこっか、雪希ちゃん」
 手から腕組みへ。
 コート同士が触れ合って奏でる、不思議な重み。
 まるで昔からの親友同士のように、私は、名前しか知らない女の子と歩き出した。


「ほらアニキ! ちゃっちゃと歩く! ただでさえ混んでるんだからとっとと歩かないと何も乗れなくなちゃうよ!」
「ふぅ、この歳になっても年末にガキのおもりとは」
「な~にその溜息は? ボクはもう二十歳、ガキじゃないの!」
 二人とも背の高いカップルが、繋いだ手をそのまま、私たちの頭の上を通していった。
 ほんの一瞬でも、その手を離したくないように。
 点滅する電球で飾られた、パラソルの下。
 行くべき場所を決められなくて、私が選んだのがここだった。
 売店で買った、できたてのクレープを持って、空いたばかりの席に向かい合って座る。
「――誰を、待ってるんですか?」
 先に口を開いたのは、可憐ちゃんだった。
「……待ってなんか、いないよ」
 私たちの真ん中に置かれた白い一つ足のテーブル。
 いろんな人の重みを乗せた天板が、こっちに少し傾いていた。
「じゃ、どうして――」
 その先を、お互いが言えずに、押し黙る。
 周りのざわめきに包まれて、どちらからともなく、手の中の食べ物を口に運ぶ。
「気持ちを、知りたかったから」
 甘いはずのクレープの欠片を飲み込んで、ようやく私は答えた。
「私の、お兄ちゃんのね」
「お兄ちゃん?」
 律儀にクレープを口から離して、可憐ちゃんは驚いた声を上げた。
「……私のお兄ちゃんね、幽霊に恋したの」
「幽霊?」
「うん。お兄ちゃんだけが触れられて、お兄ちゃんだけが見える女の子にね」
 もう一年も前になる。
 あの不思議な日々が頭の中のスクリーンに広がって、音を立て始める。
「お兄ちゃんの部屋から、ある日を境に何度も話し声が聞こえたんだ。けれどドアを開けても、結局私は何も見ることができなくて」
 何もない床を、一生懸命に差す指。
 からかうどころか、見えないと答えた私を疑う瞳の色。
 あの時、お兄ちゃんには間違いなく、何かが見えていた。
「だから私は、きっと幽霊だって思うことにしたんだ」
 服だけがふわふわ浮いて、気絶したことも、あったね。
 そのころは、お兄ちゃんはずっと宵っ張りの朝寝坊だったっけ。
「ふたりは、最初は家の中だけで過ごしてたんだけど、だんだんね、外にも出るようになったんだ」
 心から信じることは出来ないけど。
 でも確かにお兄ちゃんの側には、誰かがいた。
「行き先は遊園地でね、そして、女の子の好きなコーヒーカップに乗ったんだよ」
 めくるめく光の海を回り続けるコーヒーカップ
 冬の星座の下。
 恋人と二人きりで閉じ込められたカップは、幸せな場所だったはずなのに。


「ね、ねえ、あの人すごいわね…」
「ああ、一人で乗って笑ってるぞ…」


「――私がこの話を聞いたのは、ずっとずっと、後になってからのことだったけれどね」
 可憐ちゃんから、言葉は返らない。
 その気持ちを代弁するように、まだ幽かな湯気を立てているクレープの端が、困ったようにしおれていた。
 私、何をしてるんだろう。
 会ったばっかりの、名前しか知らない人に、こんな話をはじめて。
 きっと、変な人に思われてるんだろうな。
 視線を外して、私はパラソルの天井を見上げた。
「……その女の子と、その……雪希ちゃんのお兄さんは、そのあとどうなったんですか?」
「実はね、その人は本当にいたんだ。ずっと昔に引っ越した、お兄ちゃんと私の幼なじみ」
 喋りながら、心が思い出に傷つけられてゆく。
 日和お姉ちゃん。
 幽霊の正体がそうだと知った時から、私の楽しかった過去の思い出は、セピア色に変わった。
「生きていたのに、幽霊……?」
「その人は、その頃交通事故で入院してたんだ。命に関わるような、大きな手術を、前にしてたんだって」
 クレープの最後を、口の中に入れた。
「伝えたい思いがあったからそんなことがあった、ってお兄ちゃんは言ってたよ」
 りんごのコンポートが固まりのまま、のどを落ちていく感触がした。
「不思議な、出来事だね」
「うん」
 固まりの感触は、消えそうになかった。
 外から入ってきたばかりなのに、身体の中で生まれたしこりのように、私の胸を詰まらせる。
「私はね、ずっと、お兄ちゃんと同じ気持ちを知りたかったんだよ」
「――わかった? 好きな人の気持ちは」
「ううん。私は『ひとり』だったから、わからなかったよ」
 悲しいはずの私は、けれど自然に笑って、返していた。
 ひとりでこの遊園地を彷徨っていたときより、ずっと、心の中がはっきりしていた。
 何が悲しかったのか。
 何をしに来たんだっけか。
 悲しさがはっきりして、逆に、安心した気がした。
「雪希ちゃんも好きなんだね、お兄ちゃんのことが」
「え、え?」
 そこまで言われて、ようやく気づいた。
 お、お兄ちゃんを好きだなんて言ったら、そ、それはその、
「あ、で、でも、お兄ちゃんは苗字が一緒だけど、血が繋がってなくて、え、ええと私、なに言って」
「今だって、そうなんでしょ?」
 鋭かった。
 私は、終わった恋として話したはずだったのに。
 言わなかったはずの気持ちは、可憐ちゃんに見つけられていた。
「好きな気持ちは、そう簡単に消せないもんね」
 可憐ちゃんもクレープを食べ切って、包み紙を畳む。
 手の中に入ってしまうくらい小さく畳んで握ると、可憐ちゃんは顔の前で両手を重ねた。
「だって、わたしもお兄ちゃんが好きだから」
「……え?」
「ね、観覧車に乗ろうよ」
 私が聞き返すより早く立ち上がって振り向きながら、可憐ちゃんは、そう私を誘った。


 並ぶ私たちふたりの横を、温かそうなコートを来たカップルが通り過ぎていった。
 マフラーをしていない首元が寒くなって、襟を立てる。
 でも、繋いだ手と、触れ合う身体は、震えるくらい暖かかった。
「観覧車がこんなに込むなんて、珍しいね」
 先の見えない頭の列を眺めながら、可憐ちゃんが話し掛けてくる。
 黒い闇の中を、電球のようにずっと向こう側まで、染められた髪やニット帽が彩っていた。
「――まだ、ドキドキしてる?」
 悪戯っぽく笑って、可憐ちゃんが私を覗き込んだ。
「え、あ、ああ、さっきのこと?」
「うんっ」
「も、もう大丈夫だと思うよ?」
「照れなくたっていいのに。さっきも言ったけど、わたしもお兄ちゃんに恋してたんだもん」
 躊躇いなく微笑んで、可憐ちゃんは私の手を引いた。
 列は、少しも途切れることなく、ものすごくゆっくりと進んでいく。
 流れるままに、私も足を進める。
「お兄ちゃん、って言ってもわたしと血は繋がってないんだけれどね。でも、わたしにはずっとずっと、お兄ちゃんだったの」
「ずっといっしょにいたって、こと?」
「うん。だから、お兄ちゃんって呼んでた人、かな」
「それなら、私も同じだよ。苗字は一緒になったけど、血はつながってないんだ」
 それだけを言って、私は口を閉ざす。
 血が繋がっていなくても、私とお兄ちゃんは……。
「あの人には、育ちが違う11人の妹がいて、わたしもずっと、わたしを含めた12人のうちの1人だと思ってたの」
「じゅういちにん?」
 予想もしなかった単語を、思わず聞き返した。
「うん。だから……わたしたちには、2人のお父さんとお母さんがいるの」
 うつむき加減に、観覧車の方へと列にそって歩いていく可憐ちゃん。
 その様子からじゃ、たった今口にしたとても重い話は嘘みたいに聞こえた。
 今なら、泣かずに思い出せる。
 私のお父さんは、お母さんを、最後まで看とってくれた。
 けれど。
 11回も過ちを犯した父親を、子供は、許すことなんて、できるんだろうか。
「でもある時、気になって聞いてみたの。みんなのお父さんに、自分のことを」
 私たちの位置は、いつの間にか乗り込み口の鉄階段のところだった。
「そうしたら、わたしだけ、血がつながってないって言われたの。生まれてすぐにひとりぼっちになったわたしを、拾ったんだって」
 そこからは列も早かった。
 サンタ衣装を着込んだ若い男の人が、顔色も窺わないで、私達を脳天気にゴンドラの中に誘導した。
 仕方がないことなのに、それが、無性に腹立たしかった。
「――でも、すぐには言えなかった。もしあの人がわたしのこと何とも思っていなかったら、これで妹としても見てくれなくなったら……そう思ったら、怖くて」
 4人のりのゴンドラは、着込んだ私たち二人でちょうどくらいだった。
 また、向かい合うように座る。
「何度も、気持ちを確かめようとした。理由も告げずに、遊園地に誘ったこともあったよ」
 私の席は、遊園地を背にした方。
 可憐ちゃんの後ろの窓から、次々と新しいゴンドラが夜空へ追いかけてくるのが見えた。
「こんな風に観覧車に乗って」
 その日の景色を捜し求めるように、可憐ちゃんは窓枠を撫でて視線を外に彷徨わせた。
「でも、こらえ切れなくて、とうとう自分の口で言ったの……そしてあの人は、わたしの気持ちを受け入れてくれた」
 お互いの息が、ゴンドラを少し曇らせる。
 乗る前よりずっと、可憐ちゃんの顔に憂いの色が濃かった。
「よかったね」
 けれど、そうは言い出せずに、そうありきたりに答えてしまう。
「妹のみんなも、わたしのこと祝福してくれた。みんな、わたしと同じくらいあの人のことを、女の子として好きだったはずなのに」
「怖く、なかった?」
「――怖くなったよ。でも、みんなに恨まれてるとはちっとも思わなかった。だって、同じ人を好きになった、妹どうしだったもの」
 私は唇を噛み締めた。
 日和お姉ちゃんを恨む、自分の心の醜さが恥ずかしかった。
 まともに顔が見れなくて、床の鋼板しか視界に入ってこなかった。
 気にしないで、と前置きしてから、可憐ちゃんは言葉を続けた。
「……私、こんなに幸せでいいんだろうかって、それがすごく怖かった。そして……あの人は幸せなのかなって」
 私は黙ったままだった。
 何も、思いつかなかったから。
 私の記憶に、幸せを怖れたことなんて、一度もなかったから。
「だからあの日、逃げ出したの。そして、お兄ちゃんがここに来て、可憐を見つけてくれるのを、待っているの」
 鈍いはずの私でも、気づいた。
 わたし、が可憐に、あの人、がお兄ちゃんになったのを。
 未来への不安に耐えるために、一番安心できた関係だった頃を、無意識のうちに求めているんだろうと思った。
「わがままってさえ言えない、すごく身勝手で、そして、無理なことを、期待しているのは分かっているのに」
 今までずっと私の前に立っていた、その可憐ちゃんの目尻が、光っていた。
 カップの中で憧れた人が、今、私と同じように悲しんで、自分に苦しんで、震えている。
「こんなことをしたって、お兄ちゃんを悲しませるだけなのは分かってるのに」
 目の前で浮かべられた涙に協奏するように、意識の底で、水の音がした。
 何も紡ぎ出せなかった私の頭の中に、真っ青な滴が静かに落ちた。
 英語の、雫だった。
「マリッジ・ブルーだね」
「え?」
「婚約を前にした女の人がね、私これで良かったのかなって、思い悩むことだよ」
 婚約だなんて、と可憐ちゃんは赤くなって顔を伏せる。
 でも、それ以上に似合う言葉は無いと思った。
「でも、可憐ちゃんはちょっと違うよね」
「え?」
「だって可憐ちゃんは、その人を好きになったことを後悔なんかしてないもん。その人で良かったのかなんて悩んだりしてないものね」
 まるで、経験したことがあるように、台詞がとうとうと溢れ出す。
「ただ、どんなことがあってもこの幸せが壊れないか、確かめたかった。そしてもし壊れてしまうなら、自分の知らない何かに壊されちゃうより、自分が壊してしまった方がいいって思った」
 本当は、言える立場になんかないのは分かってる。
 私は今、思ってもらえる人が居ないんだから。
 でもこれでいいんだ。
 溢れた台詞が、可憐ちゃんを、きっと救ってくれるはず。
「だから、わざと不幸せになろうとしたんだよね」
 可憐ちゃんは、吐息のような声で、うんと頷いた。
 今まで生きてきて、初めて見る、不思議な表情だった。
 自分が分からなかった自分の心を教えられると、こんな表情になるんだなって思った。
 その瞳に、心が揺らいだ。
 怖かった。
 怖かったけれど、私は、そんな可憐ちゃんに向かって言い切った。
「でも、それじゃダメだよ」
「……!」
「幸せは、ちゃんと信じてあげないと、逃げちゃうんだよ」
 私は、もう、お兄ちゃんとの幸せを信じることが出来なくなった。
 信じられなくなったから、自分の思い出まで、悲しい色に染めてしまった。
 もしもこんな私に何か出来るのなら、他の誰かに、絶対にそんな過ちは繰り返させたくなかった。
「そうだ。気持ちを切り替えるために、いいことしてあげる」
 私は両手を頭の後ろで組むように回して、自分の髪をしばっていたリボンを解いた。
 幸せ色の、黄色いリボン。
「いいかな?」
 言葉だけの確認をとって、私は、可憐ちゃんの三つ編みを解いてゆく。
「私、お兄ちゃんが好きって言いながら、まだまだ一生懸命じゃなかったみたい」
『わたしは、妹だから』
 そうやって、知らず知らずのうちに、ブレーキをかけていた。
 血も繋がっていない、赤の他人だったお兄ちゃんと私。
 もし、妹としてとも見てくれなくなったら。
 それが怖くて、お兄ちゃんに強く聞いたりもせず、プレゼントをあげても気持ちまで伝えることはできなかった。
「私が実の妹だったら、ううん、可憐ちゃんみたいな立場だったら同じようにできたかなって。可憐ちゃんの話を聞いて、そう思ったの」
「そんなことないよ。可憐はきっと、お兄ちゃんが優しいから、すっごく素敵な人だったからそうできたんだよ」
 お互いの顔が見えない会話。
 だけれど、今まで二人で過ごした時間で、一番通じあっているような、そんな気がした。
「……はい、出来たよ」
 指先でリボンの端を引っ張って形を整えた。
 ちょっと大きく膨らんだ、ポニーテール。
 お兄ちゃんから、「あの人」になった、憧れの人を手に入れた彼女に、似合ってると思った。
「もう、幸せを怖がらないで」
 三つ編みを止めていたバンドを可憐ちゃんの手のひらに乗せて、その上から自分の手でぎゅっと握った。
 次々と空に向けられた赤と緑の光はクリスマスの色。
 歓声といっしょに、青いゴンドラの中の私たちも、染め上げてゆく。
「私、今日可憐ちゃんに会えて、本当に良かったよ」
 沈んでゆくゴンドラ。
 ことばの代わりに、私が結んだポニーテールの女の子は、そっと目を閉じた。
 私も膝を沈めて、目を閉じた。



 目が開いた。
 心臓が一気に早鐘を打つ。
 それは、真っ青な水の世界に差し込んだ、一条のスカーレット。
 見えるのは、わたしに気持ちを委ねた、可憐ちゃんの顔。
 その顔は少し赤らんで、温かそうなのに。
 唇が、冷たい。
 冬の寒さで冷えた感触じゃない。
 まるで、生き物ではない、氷の人形に触れたような。
 どうしてなのか、わたしの温かさが吸い取られるだけで、その唇からはぬくもりは伝わってこなかった。
「――どうしたの?」
 私の異変に気づいて、可憐ちゃんが目を開ける。
「あ、う、ううん、鏡がないからこの姿を見せてあげられないのが残念だなぁって。高校に持っていってる鞄になら入ってるんだけどね」
「え…! 高校生、なんですか?」
 可憐ちゃんの瞳が大きく、驚きで揺れる。
「……うん。わたしは、高校生だよ」
「そうなんですか。可憐、さっきまでずっと同い年みたいに話して」
「ううんいいの、ずっと話さなかった私も悪いんだし」
 さっきと変わらない、何気ない会話のはずだった。
 なのに、どうしようもなく怖くなってて、私は次の言葉が出なかった。
 どうしても年下には見えないのに、同い年みたいに話して、なんて言って。
 息が詰まるほど、唇は冷たくて。
 急に頭を駆け回りだした、たったひとつの単語を、どうしても認められない私が、いた。
 日和お姉ちゃんを指した、あの二文字。


 あなたは、もしかして……?


「はい終点です~」
 扉が開かれ、白い息を吐いた係員が中を覗いてきた。
 頭の中の全てが真っ白になって、わたしの口からは息さえ出てこなかった。
 階段を下る可憐ちゃんの背中。
 それが果てしなく遠くなっていくような気がして、ゴンドラの外の空気が、さらに冷たく感じた。
 ゴンドラの外に出るまでが、やっとだった。
 両肘を抱えた私の身体は、どこもかしこも攣ってしまいそうなくらいに固まって、痙攣していた。
 寒い。
 怖いよ。
 だれか、助けて。
 もう、私、歩きだせないよ……。
「雪希」
 身体が、不意に揺れた。
 私が固まっているのに気づいて、その人は私の視界に回りこんでくれた。
「雪希、おい?」
「……お、お兄ちゃん?」
 視界の中。
 私を見つめおろしてくれたのは、お兄ちゃんだった。
 絶対に、ありえないはずなのに。
 今日こんなところに、来るはずがないのに。
 どうして……。
「後ろがつかえてるぞ、さっさと降りよう」


「お兄ちゃん、どうして……今日は、早坂さんとデートだったんでしょう?」
 肩を貸してもらって降りた、観覧車の下。
 いの一番に、私はそう口にしていた。
 瞳で、お兄ちゃんの顔色を露骨に窺う。
「別れてきたよ」
 声も出せずに、冷たい指が私の口元を覆っていた。
 胸の先まで、冷たい感触が通り過ぎてゆく。
 でも、お兄ちゃんの顔は穏やかで、どこか安心したようにも見えた。
「お互い、気づいてたんだ。病院にいた早坂日和は、俺が自分の部屋で会っていたあの日和じゃないし、俺も、彼女が知ってる健二じゃない」
 数えれば気が遠くなるほど聞いた声色が、今は、私の身体を縮こまらせてゆく。
 ――ずっと待ち望んでいた言葉のはずなのに。
 いつかそうなってと、願っていたことなのに。
 例えようもなく辛くて、そして、怖かった。
「あの時の日和は、もう、どこにもいないんだ。それなのに俺は、ずっと彼女にその姿だけを探してた……」
 一瞬だけ、私から視線を外した。
 その先は、偶然なのか、今だに回り続けているコーヒーカップ
「だから二人で話して、今日で別れよう、と決めてたんだ。あの日和が言い出しそうにない所に行って、二人で食事して、遊んで……」
「でも、どうしてここが」
「進藤に聞いたんだ」
「あっ……」
「『雪希ちゃんは、今日は先輩と遊びに行くって言ってたんですけど、違うんですかっ!?』ってひでぇ驚きようだったぞ。ついて行きますっ、てのを断る方が時間掛かっちまった」
 お兄ちゃんはそこで言葉を切って、自分のマフラーと、私がいつも使っている耳当てをつけてくれた。
「こんな日に1人で遊園地回って……心配したぞ」
 首元も耳も、お兄ちゃんの体温が残る防寒具で、温められていく。
 凍りついたような体全体も、私の心も。
「だからさ…雪希。もう早坂さん、なんて、他人みたいに呼ばないでくれよ……」
 両肩に手を乗せ、私の顔の高さまで頭を下げる。
「今いる日和は……お前と子供の時遊んだ、あのぽんこつなんだから」
 その心の中の、痛いほどの悲鳴が聞こえる。
 そうじゃない。
 私は、ずっと――。
 お兄ちゃんが、思い出だけで日和お姉ちゃんと恋人になろうとしたんじゃないってこと、見てたんだから……。
「それはそうと、雪希、お前リボンはどうした?」
 そうだ、可憐ちゃんは?
「雪希ちゃんの方が、先に来たみたいだね」
 後ろから、声が聞こえた。
 今日会ったばかりなのに、親友のように聞こえる声。
「じゃあ、可憐は、もうちょっとだけ待ってるね」
「可憐ちゃん!」
 私は、弾かれたように振り向いた。










 その視線の先。
 賑やかさと明かりが、そこだけ途絶えてしまったような白い古びたフェンス。
 結ばれた黄色いリボンが、そこでふわふわと、風になびいていた。
 その足元に、萎びた花束。
 悼まれた気持ちも、過去のものだと、告げるように。










 見上げたそら。
 みんなが雪を待ち望む空は、雲ひとつ無く、星が瞬いていて、
 冷たい冬の風だけが、びゅうと吹いた……。
「……きっと、くるよ」
「ん、どうした雪希? 誰に話してるんだ?」















「う~ん。きっとお兄ちゃんには、一生かかってもわからないと思うよ?」















「な、何だそれ」
「いくよ~」
「ゆ、雪希? おいっ」
「帰ろうお兄ちゃん、私たちの家に!」

※過去の自作の再掲

特別なただの一日(マリア様がみてるSS)

※過去の自作の再掲です。
マリみてのキャラ視点…ではありません(正確にはとある作品とのクロスオーバーですが、そのままお読みいただけるとは思います)

ケーキが売れない。
通りに面した屋台で、私はほうっと溜息をついた。少しあくびも混じっていたかもしれない。
12月24日のクリスマス・イブ。街で遊ぶより、家に帰りたくなる日に、私は仕事をしている。
去年なんか、こんなことするなんて考えられなかった。今年も、そうしなくたって、祝うだけなら出来たんだ。
でも、私がどうしてもしたいことには、ちょっとの節約じゃ間に合わない。
だから初めて登録制バイトに手をだしたんだ。
けれど、その最初からこんな遠い街まで来ることになるなんて思わなかった。
私は毎年思っていた。24日になってからふらりとケーキを買う人っているんだろうか、って。本当に好きで、必ず買う人は前々から予約してるだろうし、もし突発的に思いついた人なら、コンビニか、自分の家に一番近いお菓子屋さんに行くだろう。だから、いつも商店街でケーキ売りの人を見ているたび、売り切るまで帰れないんだったら、今日はずっと帰れないんだろうな、なんて心配してた。
なのに今は、私がその可哀想な立場だ。
しかも学校の街で、住宅街じゃないこの街。ここからケーキを飼って電車に乗ろうなんて人はあまりいないと思う。
「すみません、ケーキ、いいですか?」
物思いにこれだけ浸っていて、あ、はいと反射的に答えられたのは立派だったと思う。答えてから、自分が何をしにここに立っていたんだっけ、と思い出すまでには時間が掛ったから。
ちゃんと思い出したところで、改めて私は感謝したいお客さんを見た。
襟のところに、校章のついたスクールコート。多分高校生。私とそう年は違いそうにない。赤と緑の、クリスマスカラーのリボンで髪をツインテールにまとめて、にこにことこちらを見ている。
この人とクリスマスを送りたい。誰もが口をそろえていいそうな、そんな幸せそうな表情だった。
「こちらのケーキは、2500円になります」
思わずこちらも、売る声が弾む。
長い袖の中から温めていた手を出して、一番上の白い箱を持ち上げる。
「お先に、ケーキです。3000円からお預かりします」
マニュアルを思い出しながら、100円玉を5枚取った。
「500円のお返しになります。ありがとうございます」

なんでもないはずのシーンは、そこで、事件に変わってしまった。

「あっ!」
お金を受け取ろうとして片手を離した瞬間、お客さんのケーキ箱がふらりとかしいだ。それを追いかけようと体を傾けた瞬間、彼女の鞄が、目の前に積まれていたケーキ箱にあたり、微妙なバランスが崩れ出す。
「え、ああ!」
数秒後の未来を察し、全速力で私は小さな身体を伸ばして箱の山を押さえた。
何とか大雪崩れは食い止めたけど。
ごと、ごとごと。
お客さんの手にあったケーキと、積んであったケーキ、あわせて4つが地面に転がり落ちた。
「ご、ごめんなさい!」「申し訳ありません!」
二人同時に謝った。
だけれどどちらに非があろうと、売り手と買い手、どちらが悪いといわれるかは決まっている。
「こちら、同じ物になりますので。気をつけてお持ちくださいね、ありがとうございました」
楽しかった気持ちは吹き飛び、声にも余裕がなくなる。
大急ぎでそれだけ言うと、私は大慌てで店の中へ駆け込んだ。

 店長に少し怒られて、うなだれながら私は店を出た。手に、補充のケーキ箱をもちながら。
「……」
 危うく、そのケーキも地面へ落っことすところだった。
 それは驚くだろう。
「あ、あの!」
先ほどケーキを渡したお客さんが、コートを脱いだ制服姿で、通りに向かって盛大に売り子をしていれば。
しかもご丁寧にも、私が落としていったサンタ帽をかぶって。
「あ、お帰りなさい。ちょっと借りました」
お客さんは、さっきと同じ笑顔で、悪びれもせずに私の手から補充分を取ると、山に並べた。
「な、何をなさってるんですか?」
「え? あ、ほら、やっぱり崩した分くらいは責任取らないとダメかなぁ、なんて思ったから。あなたもいなくなっちゃったし、誰も売り子がいなかったらお客さんも買えないだろうし」
帽子についている、白い雪玉を左右に遊ばせてその人は胸をはった。
「いない間に3つ売れたよ。あと1個でちゃんとお詫びできるね」
帽子をかぶるのに邪魔だったのか、彼女はツインテールに束ねていた髪をほどいていた。
そのせいか、さっきまでと少しだけ雰囲気が違って見えた。
無邪気な笑顔から、自信と優しさに満ちた微笑みへ。こちらが押しつぶされるほど飛びぬけているわけじゃないけれど、もし、言うとすればそんな変化だった。年下に見えた人が、今は年上に見える、そんな感じ。
こんな人が売り子をしていたら、私も、ふと足をとめたくなるだろう。魅力一杯の顔だった。
「で、でも困ります!」
「あと1個だから、お詫びさせてください」
彼女はそれほどこの仕事が楽しいのか、相変わらずにこにこ笑っている。そして呼び声をあげた。
そもそもスクールコートなんだから学校帰りなんだろう、大丈夫なんだろうか。
そう思った矢先、
「な、何なさってるんですか、お姉さま!」
通りに面した側から、すっとんきょうな声が聞こえた。
背筋をびくっとさせて振り返ると、そこには両耳の上で縦ロールを作った、小柄な高校生が立っていた。
黒に近い緑の制服……隣にいる『お客さん』と同じものだ。
「あれー? 瞳子?」
瞳子、じゃありません、お姉さま」
眉間に皺を寄せて、縦ロールの子が『お姉さま』を睨みつける。だけど「いつもの事」なのか、責める方も受けるほうも、どこかユーモラスに感じた。
ケーキの箱の上にぽんと手を置いて、『とうこ』と言われた高校生はこちらへ身を乗り出した。
「無許可でバイトなんかして。紅薔薇さまとあろうものが。下級生や先生方に見つかったらなんて言い訳するんですか」
「違うよ、これはボランティア、お金もらってないもの」
両手をあげて「まぁまぁ」なんてなだめる仕草をしながら、隣にいる、いまだに年齢不詳の高校生の人は彼女をなだめた。
「なんでそういう子供みたいな理屈をこねるんですか」
「ほら、シスターもよく言ってるじゃない、困っている人は進んで助けなさいって」
「――で、お姉さまはそちらの店員さんをどう困らせたんです?」
大きな瞳が、見事なまでに鋭くなった。
「う。す、鋭いね瞳子。実はね……」
相手の口から一部始終を聞きおえると、『とうこ』と呼ばれたその子は盛大に溜息をついて首を振った。
縦ロールがそのままの形で左右に触れる。ややあって、
「もう今年中言って、言い飽きましたけど、お姉さまは、紅薔薇さまとしての自覚がなさ過ぎます」
吹っ切ったように、びしっと指を突きつけて縦ロールの彼女は『お姉さま』と呼んだ人を叱り飛ばした。
「えー。やってるとだんだん面白くなってくるよ。ほら瞳子もやろうよ」
「結構です」
「恥ずかしがらなくなっていいじゃない。売り子なんて、学園祭のときもやったじゃない」
「あんな、あんなことさせられたことなんて、もう二度と思い出したくありませんわ!」
よっぽど触れられたくなかったのか、縦ロールをびよんびよん震わせて真っ赤になって女の子は噛み付いた。
それでも隣の彼女は、おお、なんてのんきな声でのけぞって見せている。
――今更ながらだけど、縦ロールの彼女の声、ものすごくよく通っている。
見回せば今の叫びに通りの人たちが何事かとこっちをみんな振り返っていた。そうとは知らない二人は、次第に会話を口げんかにエスカレートさせていく。
「あれー? 雪希ちゃん!?」
対処に困ってまごついた私のもとへに次にやってきてくれたのは、すっかり正気にしてくれる声だった。
「し、進藤さん?」
それでも驚きは隠せなかった。
遠い遠い街に、昨日まで同じクラスで授業を受けていた親友の顔があったのだから。
「どうしてここに?」
「雪希ちゃんのバイトって、ここだったの? 私はおばさんちがクリスマスパーティやるからってこっち来たの、寮生のお姉ちゃんがここの方が戻りやすいからって。でも今ろうそくがないからって、それから頼んでいたフライドチキンを取ってこいってわたしお使いにきたんだー」
いつもみたいな怒涛のような進藤さんのおしゃべりに身を任せていると、腫れた頭が冷やされていくような気がした。
普通は逆なんだろうけど、でも。
有難う進藤さん。この恩は忘れないよ。
「で、雪希ちゃん、何でリリアンの人が隣にいるの?」
リリアン?」
「えー!!! 雪希ちゃんが、知らないなんて……」
前言撤回。
その瞬間、耳を押さえたくなるくらいの絶叫を上げて進藤さんは引きつった顔を私に向けてくれた。
リリアンって有名も有名、私立リリアン女学園。お嬢さまだけが通える幼稚園から大学まである女子校じゃない。何で雪希ちゃん知らないのっ?」
「そ、そうなの?」
「そもそもリリアンの人が、バイトするなんてなんでだろう? 雪希ちゃん知らない? お嬢さまがバイトするなんてよっぽどの事情だと思うんだよねー。社会勉強? でもクリスマスって行ったらやっぱりドレス着て晩餐会とかするんじゃないかなーなんて思うんだけど」
たじろぎながら、私はちらりと、先ほどから放置している二人をみやった。
進藤さんの声もずいぶん大きい。これで気を悪くしちゃったら困るよ。
だけれど向こうは完全に二人の世界モードだった。こっちが家に帰っちゃっても多分気づかないんじゃないかってぐらい。
「え、えと。あの二人、じゃあ姉妹でお嬢さまなんだ。そうだよね、いいところなんだよね」
「何でー? あの二人神から顔から性格から全然似てないじゃない。どうしてそんなむちゃなこと思ったの雪希ちゃんは」
しどろもどろになって何とか繋いだ話を即座に否定して、しかもちょっとひどい言い回しで進藤さんは私の言葉を打ち切った。
「だって、さっきあの縦ロールの子が、相手を『お姉さま』って」
「あおれはたぶんあの学校の『姉妹』なんじゃない? 確かリリアンって上級生と下級生が学校の中だけ姉妹になる制度があるんだって」
「へぇ……」
ぽっかりと、嵐の中心に入ったよう。息が告げたよう。
少し唖然として私は二人を見やった。
身近な世の中の不思議に感動して。
「じゃあ、ロサ・キネンシスって言うのは?」
「そこまではちょっと、あ、でも雪希ちゃん油売ってちゃダメじゃない。天下のお嬢さまを代理に立てたりとかしてたら、それこそお店の人から大目玉食らっちゃうよ雪希ちゃん! そーだ、わたしお使いの最中だったんだ、じゃまたね雪希ちゃん! 新学期に今日の話聞かせてねー」
最後に一番長いマシンガントークをして、進藤さんは行ってしまった。ちょっと戻った調子も、いまはしっちゃかめっちゃか。
二人はまだ言い争いを続けている。
――結局状況は一向に変わっていなかった。
「おい祐巳。何やってんだこんなところで?」
そこへ、今度は男の人の声がした。
今度の使者は一体なんだろう。ちょっとだけ、いやすごく不安に思いながら、私は首を向けた。だけれど、
祐麒?」
隣の彼女が、毒気を抜かれたような声を漏らした。相手がいなくなって、口論もぴたりとやんだ。
こちらもお知り合いなのか、『とうこ』さんは『ゆうき』さんを見ると、ぱっと『ゆみ』さんから離れ、真っ赤になってお見合いのようにぎこちなく頭を下げた。
そこにいた顔は、最初のお客さん『ゆみ』さんによく似た顔立ちの、可愛らしいといいたくなるような男の人だった。
腹を立てたような表情でも、その印象は変わることはなかった。
「ケーキ買ってから帰るっていってたのにいつまでも連絡ないから捜してみれば……何回も鳴らしたのに、見てないだろ」
「あ……。ほんとだ、ごめん」
ポケットから携帯を取り出すと、『ゆみ』さんはがくっと首を前に折った。
『ゆうき』さんは『ゆうき』さんで、その様子にを見ると最初の『とうこ』さんに負けないぐらい大きな溜息をついてみせた。
「か・え・る・ぞ」
「……うん」
 理由は歩きながら話せ、というところがやっぱり男の人だからなんだろうか。
 そんなことを考えていると、
「姉がご迷惑をおかけしました」
『ゆうき』さんが、深々と私に頭を下げていた。
お、弟さん?
その事実に私はあっけに取られ、礼を返すことさえ忘れてしまった。
てっきり、私は……ゆみさんの思い人かと。
「ゆ、祐麒!」
「間違ったことは言ってないだろう。ほら、帰るぞ祐巳
「う、うん」
私の立ち直るのも見届けないままに、二人は歩き出していった。
私たちから十歩離れた時だろうか、躊躇いがちに『ゆうき』さんが『ゆみ』さんの腕を取るのが見えた。
その背を同じように見送っていた『とうこ』さんは、演技しているんじゃいかってくらいオーバーに、ぷいって憎らしそうに横を向いた。
理由はわからないけれど。
なぜかその三者を見て、私は心のそこから、可笑しくなった。


僅か30分ばかりの出来事。
だけれど、このおかげで残りの時間中、一度も退屈をせずに売り子を続けられることになったんです。

これが、昔、私が寒い日に経験した、あったかい嵐の話です。

日溜まりの夜(Kanon・あゆSS)

「ねえママ、どうしてママはボクっていうの?」
「……」
「ねえママ、どうしてママはうぐぅっていうの?」
うぐぅ……祐一君、意地悪だよっ」
「シミュレーションしてるだけだぞ」
そう言って、隣室のベビーベッドを俺は見やる。
先端に金色の星を飾ったもみの木の下で、ようやく寝床に釣り合ってきた子供が目を閉じている。
「今から練習しないと後が大変だぞ」
「いいもん、必要になったらできるもん」
「すぐだぞすぐ」
うぐぅ……できるったらできるんだよっ」
口を尖らせて言い返すあゆ。
でも、できるわけがないのは、昔から何度も何度も実証済みだ。
「じゃあやってみせろ」
「いいけど、じゃあボクも祐一君にリクエストするからね」
「ほー」
「こんなの簡単だよ」
息を吸い込む。
そして。一言。
「――わ、わたし、相沢あゆ、です」
笑いが爆発するのをこらえきれない。
「もうっ! せっかく寝たのに起きちゃうよっ!!」
「ムチャ言うな」
たった6文字を話すのに、息が苦しい。
まあ、言うのを逡巡しなくなっただけ、成長と言えるのかもしれない。
「祐一君は本当に変わらないね。パパなんだよ?」
「しょうがないだろ、あゆ相手なんだから」
言われた言葉に、腕組みをしてふんっと顔をそらすあゆ。
「じゃ、ボクのリクエスト」
「よし何でも言ってくれ」
鼻で笑って、その横顔を見る。
「愛してるって言ってほしい」
「……は?」
既にあゆの腕組みは解けている。
反対に唖然呆然、口を開けた俺にあゆが畳みかける。
「きょうね、『愛してるゲーム』っていうのを高校生がやってるのを見たんだ」
「なんだそれ」
「愛してるって真正面から言って、照れちゃったら負け、ってゲームみたいだよ」
スマホ世代は変なこと考えるな」
「素敵だよね」
「拷問だな」
「それ聞いて、そういえばボク、祐一君から言われたことないなって思ったんだ」
「……そうだっけ?」
茶化して矛先をそらせようとしたが、狙いは無視され、俺の防壁は正面突破される。
「うん。俺はお前のこと好きだぞ、とか、ずっと一緒にいような、とか一生大事にするっては言われたけど、ストレートに『愛してる』って言われたこと、ない気がして」
重ねられた事実の山に、俺の笑みは消え失せる。
注ぎ終わったシャンパンの泡が、止まって見える。
――完全に予想外だ、これは。
「言われたいな」
「……」
「ボクも、愛してるって言われたいな」
裏のない、まっすぐな微笑みに、俺はどんどん追いつめられる。
肌に汗が浮き、横たわったローストチキンのように光を照り返しているように感じる。
「祐一君が言ってくれたら」
「……」
「あの子もちゃんと寝るようになったし、久しぶりに、してもいいかなって、思ってたんだけど」
そう言って、じっと上目遣いで俺を見つめる。
ただ微笑んで、見つめている。
この反則技を出されたら、男は潔く負けを認めるしかない。
「わ、わかった。じゃあ立ってくれ」
「うん、いいよ」
ぴょんと飛び跳ねるように椅子から飛び跳ね、あゆは俺の目の前にやってくる。
見下ろす位置で広がる栗色の髪を、
「わっ」
躊躇せず俺は胸元に抱き寄せる。
ぽかぽかと、止むことのない日溜まりの温かさが、俺を充たしていく。
真冬の夜でも変わらない暖かさ。
青春の入り口に7年のハンデを負ってなお、少しも陰らなかった太陽の笑み。
幼い時から俺を捕えてしまったその姿を、俺は取り込むように抱き寄せる。
「……ボクのからだ、あったかいかな」
「……当たり前だろ」
冗談でするにはたちの悪いやり取りに少し腹が立って。
順番を先後して、強く唇を奪ってから、俺は心底から言ってやる。

「――愛してる、あゆ」

普段なら入れてただろう、「ぞ」を入れなかったのは、せめてものプライド。
全力で照れるのを期待して。

「愛してるよ、祐一君」
目の前の妻は全く照れずに言い返し、俺を赤面に沈める。

「――祐一君。ボク、家族ってどんな感じなんだろうって、ずっと迷ってた。 お母さんはいなくて。お父さんって、あまり実感がなくて」
「……ああ」
「でも祐一君と、一緒に車に乗って。本物の木を買ってきて。子供のためにツリーを飾ってたら、思えたんだ。ああ、家族だって」
「……」
「だから、祐一君にも、祐一君のご両親にも、本当に感謝してるんだよ」
「そうか」
「いい女になったでしょ、ボク」
「そうだな」
酒も入っていないのに、徹底的に俺は彼女を肯定する。
それでも母になった恋人は、照れない。
「……生意気だぞ、あゆのくせに」
「ボクの勝ち、だね」
子供っぽく胸をそらした姿に、昔と立場が逆転したのが悔しくて、憎らしくて。
「後で覚えてろよ」
「わっ」
服越しに、一年ほど我が子に譲っていた膨らみに手を伸ばす。
身をよじったあゆの肘が深緑色のシャンパンボトルを揺らし、ふたりで慌てて押さえる。
そこで目線が合い、ふっと笑い合う。
ここで落っことし割らなくなったあたり、俺たちは、ちゃんと大人になれたのかもしれない。
「……今晩起きたら、俺があげとくなミルク」
「じゃ、今日はひさしぶりに、飲もうかな」
ベビーチェアの上に乗せた、小さなサンタ帽を軽く整えて、俺はグラスを持つ。
見慣れたカーテンと家具。
そこに、北欧生まれの家具量販店が用意した本物のもみの木が、着飾られて大きな顔をしている。
申し訳程度に敷いたワイン色のランチョンマット。
その上に、久しぶりに登場した、とぼけた顔の天使の人形。
f:id:algolf:20201217123522j:plain
そのぜんぶに目線と、お礼を飛ばして。


「メリークリスマス、祐一君」
「メリークリスマス、あゆ」


澄んだ音が消えないうちに、口の中で騒ぐ酸味の効いた泡を飲み干して。
最愛の家族とのお祝いが。
我が子が寝ている今だけ。
静かに、幕を開ける。

あゆがまだ好きだからぼく勉で例えてみた(前編)

<趣旨>
私の大好きな「月宮あゆ」は、ゲーム「Kanon」のキャラクターです。
現代で彼女のことを説明するのに、さまざまな思いから「ぼくたちは勉強ができない」の「古橋文乃」にシナリオをなぞってもらうという方法を思いつきました。
初出まで遡ると約20年前の作品なので、ネタバレも何もないかと思いますが、まあ、以下そういう私的なお話です。
文乃「……たい焼きを買ったら全力ダッシュって、とっても不安なんだけど」
うるか「あたし、成幸のいとこ役!?」
(というわけで、劇として演じてもらいつつ、( )内で解説。原作そのままのセリフ引用は『』で標記します)


<出会い>
――雪が、降っていた。
記憶の中を真っ白な結晶が埋め尽くしていた 。

(主人公・相沢祐一は、高校2年生。親の海外転勤への同行を拒否したものの、一人暮らしの主張も却下された彼は、1月のはじめ、7年ぶりに、同い年のいとこと叔母が住む北の街にやってきました)

(最高気温が氷点下になることが普通な世界。子供のころは冬休みのたびに遊びに来ていた場所だけど、7年前を境に縁が遠くなってしまい、なぜか記憶もおぼろげです。再会した従妹と、お使いがてら、街を案内してもらうところから、彼女とのストーリーを始めます)

うるか「買い物してくるから、ちょっとだけ待っててね。勝手にどっか行かないでね」
成幸「寒すぎる……」

(見知らぬ商店街。当時はスマホが舞台道具になくて許された時代ですから、迷子にならぬよう、おとなしく待っているしかない主人公です。そこへ……)

??『そこの人っ!!』
成幸「え?」 
??『どいてっ! どいてっ!』

(さあ、彼女の登場です)

成幸「古橋!?」 文乃「うぺぇっ!?」
べちっ!
文乃『ひどいよぉ……避けてって言ったのに…』
成幸「いや、普通にびっくりして!」

(鼻を押さえて非難の声をあげる、 ダッフルコートにミトンの手袋、黒ブーツを身にまとい、頭には赤いカチューシャ、背中には羽のついたリュックを装備した小柄な少女。今回文乃に演じてもらう、月宮あゆの姿です)

文乃「って話はあとっ」 成幸「何だよ!?」 文乃「走って!」

(見ず知らずの彼女に、突然手を掴まれ、道もわからぬ商店街を引っ張りまわされる主人公)

成幸「なに? なに?」 文乃「わたし追われてるんだよっ。いっしょに隠れて!」

(間一髪。ファーストフード店で客を装い隠れたところで、彼女を追ってきたエプロンをしたおじさんの姿が見えます)

成幸「なんで緒方の親父さんがここにっ! しかもめちゃ怒ってる!?」
文乃「たぶん、たい焼き屋さんの役だからだと思うよっ」
成幸「……なんでたい焼き屋さんが、ってなんだよその茶色い袋」
文乃「たい焼きだよ」
成幸「……えっと、その袋を手に入れるまでの事情を話してもらおうか」
文乃「えっと、たい焼きをたくさん買って、お金を払おうと思ったら」
成幸「思ったら?」
文乃「財布に、お金が入ってなかったので」
成幸「で」
文乃「思わず、走って逃げちゃったんだよ……」
成幸「……えっと、警察にいこうか古橋」
文乃「待って成幸くん! これには複雑な事情があるんだよ!」
成幸「聞こうじゃないか」
文乃「長くなるよ。とっても複雑な話になるよ」
成幸「時間はたっぷりあるから、いくらでも聞く」
文乃「あのね……すごくお腹がすいてたんだよ……」
成幸「……」
文乃「……」
成幸「完全にお前が悪いんじゃないかっ!」
文乃「うぺぇっ!! じゃなかったうぐぅっ!! ごめんなさいっ!!」

(……縮めてますがほぼ脚色抜き、彼女は出会って数分でこの流れで「食い逃げ」を自白する前代未聞のヒロインです。そしてお夜食の件などもあり、この掛け合いができてしまうのが成幸と文乃っち……)

うるか「……成幸、どこいったんだろ」

(というわけで後日ちゃんとお金払うという言質をとり、散々苦労してうるかのもとに戻って叱られます。その翌日、今度は街を思い出すためひとりで散策していると……)

文乃「え!? また成幸くんなの?」

(また走ってくるんですね、紙袋抱えた彼女が)

成幸「いいか、冷静に、箸を持つ方に避けるんだ」 文乃「うんっ!」 成幸「っておいっ!?」
ドカ!
成幸「なんで、こっちに」
文乃「うぐぅ、左利き……」

(冗談みたいですが、本当に彼女も左利きです。そして懲りずに再逃走の幕が上がります)

成幸「またかっ? またなのかっ? 財布の中見ろよっ」
文乃「だってこれ劇だからっ」

(商店街からの逃走の末、到着したのは見知らぬ小道でした。主人公は帰り道を尋ねますが、彼女は首をひねるだけ)

成幸「(帰るもなにも、もうあの界隈にもう近付けないんじゃないか?)」
文乃「何か言った? もしかしてキミも、帰り道知らない?」
成幸「わかるわけないだろ、俺、引っ越しで7年ぶりにこの街に戻ってきたばかりなんだから」
文乃「7年ぶり……昨日からもしかして、と思ってたけど、キミ、唯我、成幸くん……?」
成幸「もしかして、古橋……か」

(目の前の少女の面影に、霞んでいた記憶が、そこだけ晴れていきます)

文乃「成幸くんっ!」

がばっ、さっ、どか!

文乃「か、感動の再会を避けるってどういうことだよ成幸くんっ!? 街路樹にキスしちゃったよっ!?」
成幸「いや、飛び掛かられたら避けろってカンペが!」
文乃「ちょっとカンペ役! ってりっちゃん!?」
理珠「(原作通りです)」

(ごめんね、 かわして衝突させなければいけない理由があるのです)

どさどさどさ……
美春「きゃ!」 真冬「驚愕! 美春、なぜこんなところに!?」

(この時、文乃、もといあゆがぶつかった木から大量の雪が落ち、別のヒロインに降りかかるのです。彼女については、機会があれば……)

成幸「……結局、成り行きで盗品のたい焼きを口にしてしまった……」
文乃「昨日もあげたからね、一匹も二匹も一緒だよ」

(そんなやり取りもありましたが、幼なじみと出会い、記憶の靄が晴れた嬉しさは勝って……)

文乃「また会おうね成幸くん」
成幸「そうだな」
文乃「約束だからね。そうだ! 昔みたいに指切りしようよっ」
成幸「そこまでしなくても……」

(どこか懐かしさを覚える、指切り。そして彼女と別れます)

(そして話の合間に、主人公は夢を見ます。回想編です)


<7 years ago>
(回想は、雪の中、今より幼い顔のいとこと商店街に行き、同じように待たされているところから始まります。今から7年前……小学生ぐらいのことだと、プレイヤーは察します。そして)

どん!
??「うぐ」
成幸「……えと」
??「えぐ、ひっく……」

(赤いカチューシャと白いリボンの差こそあれど、あの少女と同じ髪色と顔立ちの少女が、彼の背にぶつかって泣き出します)

成幸「(これ、周りには完全に俺が泣かしてるって思われるんじゃないか)」
??「うぐぅ…」
成幸「と、ともかく場所を変えよう。な?」

(何とか彼女の名前を聞き出し、彼女に落ち着くよう話す主人公。少ないおこずかいで、彼女からのリクエストを買ってきます)

成幸「ほらいっしょに食べようぜ、たい焼き」
文乃「……(はむ)」
成幸「うまいか?」
文乃『しょっぱい』
成幸『それは、涙の味だ』
文乃『…でも…おいしい』

(その優しさがうれしかった、と後に教えてくれる彼女は、少ない口数ながら、また一緒にたい焼きを食べたいと告げます)

文乃「約束、だからね。指切りしよ」
成幸「えっと、指切りははずかしいんだけど」
文乃「指切り……」
成幸「わかったよっ」

(主人公はその翌日も、約束通り彼女と会います。たい焼きを食べ終わり、一緒に商店街を散歩する主人公に、彼女はぽつり、昨日泣いていた理由を告げます)

文乃『…あのね…お母さんが、いなくなっちゃったんだ』
成幸「……」
文乃「わたしひとり置いて、いなくなっちゃったんだ」
成幸「……」
文乃『…それだけ……』

(彼女は、母親を亡くして悲しみに暮れているところ――文乃では明確に描写されることはありませんでしたが――を、主人公に出会ったのです)

(なお、零侍さんの存在もあり気になるところですが、Kanonの作中では、父親の描写は全く出てきません。この父性の欠如は、他のヒロインでも、いえ初期のKey作品に共通する部分でもあります)

(これまで語れば大変になるので閑話休題。彼女を元気づけたいと思い、彼は、また会おうと待ち合わせの「約束」を取り付けます)

成幸「もしよければ、だけどな」
文乃「うん。成幸くんといっしょにいると、楽しかった時のこと、思い出せるから……」

(では、現在に戻りましょう)


<現在の日常>
うるか「そもそも、なんで文乃っちの役は食い逃げに命を懸けてるの?」
文乃「うるかちゃんっ。わたし、探し物をしてるんだよっ」

(後日、街をうろうろしている理由を主人公に尋ねられ、彼女は探し物をしていると答えます)

成幸「学校から帰って着替えて捜索って、忙しいな」
文乃「わたしの学校は私服通学なんだよ」
成幸「なるほど、で、探し物ってどんなのなんだ、古橋?」
文乃「そ、それが、どんなのかもいつなくしたのかもわからなくて」
成幸「ハァ?」
文乃「それでも見たら絶対に思い出すもん!……ってことになってるの」
成幸「う、う~ん」

(それでも、7年前の記憶が曖昧な主人公は、自分の記憶も似たようなものだと思って、手伝うと申し出ます)

文乃「あ、クレープ屋さんのメニューが増えてる!」
成幸「真面目に探せ!」
文乃「あれ、昨日までここ、ケーキ屋さんじゃなかったはずのに」
成幸「勘違いなんじゃないか?(こりゃ難航しそうだなぁ……)」

(こんな調子で、捜索に付き合うのが日常です)

文乃『こういうのって相合い傘って言うのかな』
成幸「い、いまのご時世には、そんなこと言ったりしないんじゃないか」

(それでも、雪が舞う日の捜索はこんな風に、傘を差し掛けてあげたりしてね)


<過去の日常>
(では、過去の二人はどうだったのか。当時の方がもっといい関係でした。毎日駅のベンチで待ち合わせては、遊びに出かけていました)

成幸「もうすぐだからな。いい場所」
文乃『人けのない場所……?』
成幸「その言い回しは、ちょっと語弊が」

(ある日、彼はお気に入りの場所を彼女に教えます。それは、その街の小高い丘の中、一本の巨木がそびえたつ森の広場でした)

成幸「どうだ、俺の秘密の場所。この木だけは、街中から見えるんだぞ」

(彼女も気に入り、主人公に微笑みます。その笑顔に心惹かれたところで)

文乃「ちょっとだけ、後ろを向いてもらえるかな。スカートだから」
成幸「……何するんだ?」
文乃「いいよー、上向いても」
成幸「……お、おい! 危ないぞ!」

(見た目に反して運動神経の悪くない彼女は、主人公が怖がるほど高い巨木の枝に上って、さらに見通しが良くなった街を眺めます)

文乃「平気だよ! 気持ちいい風……」

(その光景に、やっと笑顔を見せてくれるようになった彼女)
(でも主人公は、冬休みで遊びに来ているだけの小学生。いずれは親と共に帰らなくてはいけません)

(少しでも彼女の笑顔が見たくて、主人公はあくる日……)

文乃「あ、こないだクレーンゲームで取れなかった人形!」
成幸「こんなの、俺がやれば楽勝だぞ(うるかにだいぶ金借りたけど、どう返そうかな……)」
文乃「ありがとう!」
成幸「ちなみにこれはな、ただの人形じゃないんだ。願いが叶う人形なんだぞ」
文乃「……えっと、うさんくささがすごいんだよ」
成幸「そんなことない、絶対に叶うんだぞ! でも叶う願いは最大3つまでで、数を増やすお願いは禁止。 あとお金のかかる願いはダメ。叶えるのは貧乏な俺だから」
文乃「……ふふ。うれしい。じゃあね。早速ひとつめ」

(いかにも子供らしい発想のプレゼントを受け取り、彼女は1つ目のお願いを伝えます)

文乃「わたしのこと忘れないで下さい」
成幸「……」
文乃『冬休みが終わって、自分の街に帰ってしまっても、時々でいいですから、わたしのことを思い出してください』
成幸「約束する。俺は文乃のことを忘れないし、絶対にこの街に帰ってくる。その時はまた、一緒にたい焼き食べような」

(一度はこんなことを言われてみたい人生だった、ですね。少し先までジャンプしますが、2つ目の願いはこちらです)

文乃「ふたつめのお願い。この場所を、ふたりだけの学校にして」
成幸「学校、に」
文乃「成幸くんと一緒に学校に行って、成幸くんと一緒にお勉強して、成幸くんと一緒に給食を食べて、成幸くんと一緒に掃除をして……そして、成幸くんと一緒に帰りたい」
成幸「……」
文乃「どう、かな?」
成幸「……いいぞ。今日からこの秘密の場所は、俺たちの『学校』だ! 宿題もテストもなし!」
文乃「給食にはね、いつもたい焼きが出るんだ!」
成幸「おいおいっ」

(幼いながらも、立派な恋を進めるふたり、一方7年後の世界では……)

文乃「な、なんでふたりで見に行くのがホラー映画なの? 台風の日の繰り返しだよっ!」
成幸「誘ったの、古橋の方だよな? 俺だって嫌だよ!」

(偶然二枚入手した映画のチケットで、待ち合わせて見に行った映画がホラーだったり……)

文乃「成幸くん大変だよっ! トーストがなぜか黒焦げだよっ!」
成幸「……古橋、なぜトーストをフライパンで焼く? 特技は料理って言ってなかったか?」
文乃「あのその、これ劇でござるから!」

(……会話だけはアレンジしてますが、特技は料理と宣言してたことと実際の結果、まったく誇張なしの原作通りだったり……)

成幸「そもそもなんで古橋が、この家で食事を作ってるんだ?」
うるか「あたしが誘ってお泊まりさせたからだよ。まあ……炊飯器なのにご飯を黒焦げにしたのは予想外だったけど」
成幸「インスタントみたいなのとか、置いてないのか?」
うるか「あたしの役の子は陸上部部長だし、アスリートってことで、そういうの置かないみたい」
成幸「まぁ古橋の役の子、小さい時にテレビ番組の『CM』を見てクッキーを作ろうとしたキャラみたいだし。」
うるか「この碁石みたいな小道具がそう?」
成幸「それはリアル古橋の差し入れなんだが……」
うるか「……」
成幸「……」
文乃「えっと、意味深なアイコンタクトはやめやがれ、なんだよ」

(こんな感じで、完全なコメディですねw)

(しかし√の後半では、うるかが話した通り、主人公のいとこの誘いを受け、彼女は主人公と同じ家に数日泊まることになります)

(では、長くなりましたので後編に続きます……